薩摩琵琶の歴史の梗概 薩摩琵琶は領外へ出すべからず

薩摩琵琶は領外へ出すべからずとの御沙汰
 こうした教育は、徳川の方では決して喜ぶはずがない。必ず神経をとがらせてなんとかかんとか因縁を付けてくる。かの前田候などは、内に剛健の気風を養成しながら自分は表面鼻毛を伸ばして馬鹿の標本のような顔をして謡をやり、それによってカモフラージュしていたと云うんだから、徳川の気持ちや政策は推して知るべしである。
 たとえそれが九州の果てであっても、徳川の隠密は行き届いていた。果然、島津では怪しからんことをやっている。もしこのままに棄ておいて徳川の勢力を駆逐するような事になっては大変だと甚だしく神経をとがらせた。そこで松平越中守が、先一番に琵琶のお尋ね書を以て探りを入れ始めた。

 「都の琵琶は唯平家物語を歌ふに共調子を引出す為に琵琶を用ふ。また、雅楽琵琶は大鼓小鼓に類して畢竟は拍子のみなり。律は絲の事なれば右のうちとも云うべし。唯この二種あれとも、もて遊ぶ人稀にて感ずる人も稀なり。俗間には絶えてなし。
 九州には琵琶法師といふ者夥しく之あり。琵琶を断じ路次に立ちて米を貰ひ、その律かまびしく聞くに堪えず。又琵琶に地神経といふものを合せて、之を天台宗の有りがた縄文といふ。三味線法師などの浅ましき者に歯すべきに非ずなど嗚呼ヶましく言罵りて門佛するとあり。されど薩摩、大隅は他國とは大に異り、其形も平家琵琶より小さく、撥は黄楊にて作り、太くして扇を開けるが如し、年若き武士みな琵琶をもて遊ぶ。かの二州は名だたる勇猛の風あり。裾高くかかげ、長き刀を十文字に横へたる荒男の、夜な夜な琵琶を弾ず、その風情思ひやるべし、その調正しく、其歌雅びて他國のものとは似たることもあらず云々」

 ここでその返答だが、うっかり調子に乗って自慢たらたらで琵琶の効能書でも並べようものなら、それこそ因縁をつける材料を提供してせっかくの日新斎の苦心して遺した興国音楽も差し止められ、悪くすると廃藩になったかも知れない。しかし、流石に偉い家老がいて武事に言葉は立ったが、その時に「他国へは普及すべからず」という事になった。後世幕末の頃に、倒幕の大関格で暴れた薩藩のことを考えると実に妙味が涌いて来るではないか。
 ところで、この尋問書が届いた時代は、ちょうどかの有名な重豪が藩主で、藩内は硬軟両派に別れて互いにしのぎを削っていた時代だ。
 徳川の方では、さすがに大川に水絶えずで相当偉い家来がいたから、現代の政治家や役人の如く娯楽物だからといって等閑(※1)に附したり、あるいは気が付かないような間抜けではなかったから琵琶に一等最初に文句をつけた。そしてその他の事にももちろんかなりうるさくやったに相違ない。
 そこへ重豪と徳川とは姻戚の間柄であり、また重豪は江戸で育った人であり、そんなこんなの関係からか、それとも他に意見の根拠があったものか、そのところは学者の畑で私には分からないが、急に藩政の大改革をやった。 
 今までに自分が造士館や演武場を設立して大に武を奨励したにかかわらず、安永二年に江戸高輪の藩邸から帰麑(※2きげい)すると直に

一、言語、行跡、髪形の儀相直し候儀やうに致すべし
一、御國許温泉へ、他國人参り候苦しからず候
一、諸事指南に、女にでも、他國より参り候儀苦しからず候
一、花火、船遊等致候儀苦しからず候

と、今までの藩の仕切りからみれば甚だ突飛なお触れが出た。
 表面に現れたる此のお触れのみならず、弁天波止場には上方芝居を興業せしめ、又は他に怪しげな料理店を開かしめ、之にも上方から妓女を呼び寄せて大いにあおった。さあこうなると事件だ。
 およそ奢侈な風は、上から法度してもコッソリやるもんだ。打棄って(うっちゃって)おけばいよいよやるというのが普通である。しかるに況んや(※3)それを奨励したんだからいよいよ事件だ。変な奴は得たりや雁と追っ手に帆あげて突進の状態、昔の武勇談や忠臣孝子譚は野暮でござるになった。
 こうなると一方で、怪しからんと奮起する一派ができるのが当然で、当然で、それらが争うのも当然である。つまり過渡期というのが現出された。

※1)等閑(とうかん) いいかげんにして放っておく、なおざり
※2)帰麑(きげい) 鹿児島に帰ること ※”麑”は鹿児島の”鹿”と”兒”を立てにつなげた字
※3)況んや(いわんや) 言うに及ばず、ましてや

朝令暮改
 その頃、徳田邑興という藩士がいた。彼は合伝流兵法の始祖で、極めて硬骨謹直の武士であった。また強いことも甚だ強く、常に向かう所無敵の豪傑だったが、鯨に鯱、釈迦に堤婆の例の通り、彼にもまた苦手があった。苦手とは何ぞ? それは意外にも墓であった。
 彼ほどの豪傑も、墓の前へ出ては立ちすくんで口もきけなければ、手も足も出ないのだ。
 ところがある日、友人が彼を訪問すると、武士としての第一公式の出で立ちに及んで、小刀を前半に手ばさみ、大刀を側に引き寄せて、両袖を高くからげ、変な桶へ両手を入れて、おもむろにかき回しながら、真っ青になって額から脂汗を垂らしている。しかもそれが場所もsろうに庭の真ん中で、おまけに土下座ときている。
 見ると桶の中には沢山の蟇(ヒキガエル)がウジョウジョしている。彼は曰く
 「拙者は前世いかなる因縁か、墓に出合うと全身金縛りに遭ったように進退窮まって如何とも致しようがござらぬ。これでは一朝事ある際、君公の御為に働けないから、蟇に後れを取らぬよう精神の鍛錬中でござる。
 こんな生一本の男だから、勿論今回の藩政改革やまたその実際の結果を見て大々的不満であった。
 一方には純朴な田舎武士につけ込んで誘惑の魔手は盛んに活躍する。それに引きずられて下洛する士風。これには流石の藩公も面食らった。そこで最初に改革の触れを出してから僅かに六ヶ月にして

此度繁栄方相立てられ、芝居或は茶屋等相立てて、他國男女に限らず入込み候様に免許され候に、取り違へて頃日武士の風儀堕弱に流れ、宜しかざる所行有之候由聞こえしめされ候間、右の通無之、恭謹の風儀に相成り、質朴相守り候様に仰せ渡さる。

 というお触れが出た。しかしこんな生ぬるいものでは歯が立たなかった。とうとう藩の財政は疲弊する。インチキ士は幅を利かすというありさま。強腹をもって鳴る重豪も、全く手の下しようが無くなった。その結果も原因の一つで、重豪は不惑の年を越えること三歳にして、つまり後役になってから世論囂々(※4ごうごう)たるうちに隠居して、江戸高輪の藩邸に引っ込み、斎宣に世を譲った。そこで斎宣は秩父太郎を抜擢採用して藩政の改革を期した。

※4)囂々(ごうごう) 騒がしいさま

近思録崩れ
 ところが太郎は甚だしくバリバリやってのけたので隠居さんカンカンに怒って切腹させてしまった。これが有名な近思録崩れというのである。
 そのうち斎宣も斎興に世を譲ったけれども、重豪の隠居さんは未だピチピチしていて江戸高輪から遙かに藩政を監視していたし、それが為に依然として文弱派が勢力を張って、昔日の如く剛健の風は噸と振るわなかった。しかし例の大衆文芸の南国太平記に出ていた立役者調書広郷が財政方面の立て直しは成功させた。

島津斉彬
 それから維新の元締め島津斉彬がでて暫く藩の風が変わって昔日の観を呈してきた。これまでの文弱時代に琵琶も甚だ変化した。

民心の変遷は歌に現れる
 郷士芸術は、その郷士精神が生むものであって、そしてその時代々々の思想のエキスされたものが織り込まれているものだ。
 そこで重豪の取った政治変革が如何なるものであったかは、当時出来た琵琶歌にチャーンと結果が現れている。ことに甲斐殿道行や群島に至っては鼻持ちならなないものがあし、是等の歌と、日新斎時代の歌と比較すると雲泥の差がある。また当時城下において

 雨の降らんのに草年田川濁る
       伊敷原良の化粧の水

という俗謡ができた。あたかも阿房宮を想わせるような歌であって、これによっても如何にお盛んだったかが分かる。しかしこれに対してある人は景気が良いと喜んだろう。またある人は眉をひそめただろう。ところでこの俗謡というか民謡というかは、憂国慨世(※5がいせい)硬骨漢が憤激のあまり歌に託して痛罵したものか、それとも興行師めいた奴が景気あおりのつもりで歌ったのか、これは読者及び特に政治家やお役人という方々のご判断に任せたい。

※5)慨世(がいせい) 世の中のありかたに不満を持ち、憤慨すること

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