薩摩琵琶の歴史の梗概(最終回) 町風琵琶〜帝国琵琶〜近代琵琶へ

町風琵琶
こうした時代に、琵琶にも一派が生まれた。それは町風琵琶というのである。
茲(ここ)に徳田善兵衛という琵琶にかけては甚だ堪能な侍がいたが、これが主家を浪人して町へ下った。
薩摩ではご案内の通り、豊臣秀吉と戦争した時、一向宗徒の為に煮え湯を飲まされたので。それ以来藩内では一向宗を信ずることを禁止した。もし信ずる者は、侍は浪人へ転落、町人は所追放といったぐあいの憂き目を見なければならなかった。けれども何がさて先祖代々の宗旨だけになかなか変更できない。現に古老の言によると一軒の家で穴蔵を掘り親族一同の位牌を集めてコッソリ南無阿弥陀仏をやっていたと言うんだから大概は想像できる。

町に於ける琵琶師匠の元祖
徳田善兵衛もご多分に漏れず南無阿弥陀仏とやっていたが、それが知れて失業者という者になって町へ下った。そしておきまりの寺子屋を開業したが飯にならない。そこで芸が身を助ける不幸せか、または幸せかは知らないが、とにかく琵琶の師匠を始めた。これが薩摩琵琶の歴史始まって以来最初の、町に於ける師匠である。
五斗米を去って、一方で孔孟の道を教え、一方で琵琶を教えるというと甚だ清らかで且つ骨つ節が硬いようだが、果たしてそうであったかどうか、私には分からない。
さて彼は琵琶を教え始めたが、肝心の弟子がなかなか就かないのも道理、由来「旗下の壮士(※1)謡いにして云々」があったほどだから町の人の趣味に適しない。それと今までの階級観念の熾烈さからきた極端な差別待遇の反撃などが手伝っている。そこで弟子吸収のために今までの芸を俗化せしめた。今の言葉でいうと迎合妥協したんだ。これを一般から町風琵琶と言われた。
ここで「旗下の壮士以上」が文句を持ち込むか、または「お家兵法純粋」がものを言わねばならないところなんだが、それが無かったのはやはり当時の思想を露骨に現していると思う。
この徳田善兵衛の門下に於いて出藍(※2しゅつらん)の誉れ高かった人に渡辺仙太郎及び西幸吉がある。
西幸吉は徳田善兵衛が浪人後の弟子か浪人以前からの弟子かは判明しない、入門したのは何れが早いかはちょっと分からない。ただ、上京後に高橋正風氏の指導により、芸風は一種異なったものができたしかし渡辺氏は鹿児島に居残って町風琵琶のために気を吐いて?………いたがこの渡辺仙太郎時代になって名実共に町風琵琶ができた。

※1)壮士(そうし) 壮年の血気盛んな男性
※2)出藍(しゅつらん) 元のものよりすぐれること、この場合師より上手くなること

亡国琵琶の衰徴 篠崎五郎師琵琶を奨励す
当時は黒船の騒ぎでゴタゴタしている際であったが、斉彬は着々と諸種の方面を片付けた。これがまた士風の反面たる琵琶に現れて、文弱者流の亡国琵琶歌は衰えて興国的なものになってきた。そして西郷隆盛などは琵琶を奨励したと聞いたが、これはまだ私には明確な種が入らない。しかし、後に篠崎五郎氏が琵琶を沢山作って、それを青年に分興し大いに琵琶熱を上げたのは確かなる事実である。

以上述べただけで、琵琶には、座頭琵琶、士風琵琶、町風琵琶、この三種があることがおわかりになったと思うが、右のうちで士風琵琶は座頭から教えられたもので、そしてその士達の環境が琵琶をば別の育て方をしたという事も請取れるが、一方では常に座頭たちと同席弾奏していたからどちらがどちらとも言えないほどのものであるとも言い得る。実際に聴いてみると、芸そのものには大して変わりはない。強いてその違いを求めると、座頭の方が大体において器用だ。それだけやや下品な所がある。士の方は上品だ。それも「大いに」という冠を付ける程ではない。ただ弾奏者その人の人格如何によって種々な風に変わってくる。これは芸術は人格の反映なりということによって考えても当然そうであるべきである。

妙寿
前述の徳田善兵衛の時代に、妙寿という座頭がいた。これが非常に頭の良い男で、この人の弾法が当時の士風琵琶や座頭琵琶を統一したといいたいほどに斯界に大勢力を張った。そして今以て薩摩琵琶界では妙寿風の弾法をやらない者はなかろうと言っても大して差し支えはない。この事については後に述べさせていただく。

文部大臣森有礼琵琶を中学の正科にせんとす
一方、徳田門下の後輩に吉水經和(号錦水)という人がいた。この人も後に上京して東京に於いて門戸を張り西幸吉と共に 明治大帝の御前弾奏をした。この事については後段に詳しく述べよう。
それから後、かの有名な文部大臣森有礼氏が、薩摩琵琶を中学の正科にするといって相当骨を折っていたが、惜しいことには刺客の為に殺された。

帝国琵琶
吉水經和という人は、琵琶の方の腕前に就いては、現在でも手に入るだろうから蓄音機で試しに聴くとよく分かる。(私は実際のを度々拝聴したが)しかし、文才は相当にあった。昔は別として、明治大正昭和へかけて琵琶師仲間では、あれだけ文才のある人は少なかろう。彼は上京後、芝に居をト(※3ぼく)し、琵琶教授の看板を掲げ、西久保の天徳寺にて常に琵琶会を開いたが、元々徳田門下ではあり、その上彼自身が更に東京人に向くように、かつ習いやすいようにと工夫したために、昔の薩摩琵琶とはよほど違うものができた。そこで同門の西幸吉氏はもちろん、他の薩摩出身の琵琶師は盛んに悪口を言ったのを私は度々聴かされた。でも吉水氏の方はドシドシ門下も増えていった。
吉水氏は間もなく薩摩琵琶とはいわず、帝国琵琶と名のるようになった。それに対してもまた悪口があったけれども、私はそれを単なる悪口として聞き流した。
吉水氏の琵琶普及の目標は、「女へ!」であった。それは、子供を寝かせる時に子守歌を歌うが、あれの代わりに我が帝国琵琶を歌え、そうすれば女子供は自然に歌詞を覚える。それが長じて後、歌詞の意味が分かれば大いに子弟教育になるというのであった。ひるがえって島津日新斎の考えた事と比較すると感慨無量なものがある。

※3)卜(ぼく) 占うこと

錦心流琵琶
吉水氏の門下から、永田錦心、牧野錦光などが出たが、牧野錦光は若い時分は師匠吉水氏の代稽古をしていたものだが今は止めたらしい。永田氏は吉水氏より出でて、更に芸風を更えた。永田氏の子弟と私とは、学生時代に同級生であったので交際もしていたし、また永田門下の人達もたくさん遊びに来た。その人達の当時の話によれば、「永田さんは在来の琵琶(帝国琵琶を指す) に他曲を加味して一風変わったものを作れといわれる」とて皆一生懸命に三味線または謡を混ぜていた。そして、吉水氏が弾法が単純だったのと、永田氏がまた下得手であったのとで、門下は弾法に満足する者はいなかった。向上心の盛んなる者は皆々他の師匠に就いて習った、永田氏の門下に至っては、更に一層往来の芸風と遠ざかった。それは現在無数に錦心流の先生が居られるから、お聴きになればどんなものか直に分かると思う。

薩摩琵琶の真髄
一方に於いて、士風琵琶座頭琵琶は如何なったか、 明治天皇の御代には雲の如くと言えばちと大げさだが、とにかく名人も居たが、それらの人達はほとんど故人になられた。伏見鳥羽の戦いの砌(※4みぎり)、陣中で弾奏した当時紅顔の美少年、後に  大正天皇が東宮に在らせられた時分、御前弾奏した兒玉翁や、須田綱義、私の師匠の木上武次郎などは実に見事な名人であった。今では、門司に永井重輝氏、鹿児島に伊達熊太郎氏、東京に永井氏の令弟で向井重雄などがいる。その他現代に琵琶師匠としての多くの人がいるが、これは今ここで述べるより、実物が何よりのものだから、後世の人の筆に任せようと思う。以上述べた通りであるが、私は現在の琵琶をいかに評してよいかは言いたくない。唯識者の意に任せる、しかし希望としては、昔の日新斎の意図に立ち返り、また畏れ多い事ながら  明治天皇の思し召しに叶うようにしたいという事が寸時も頭を去らないのである。

要するに薩摩琵琶の真髄は、文章の方から見ても、性情を正しくし、士気を振興せしむる為に、大義名分を知らしむる事に重点を置いている。義はすなわち君臣である。そして、その節廻しを聴くと(迎合妥協派のものは別である)真の代表的名人のものはいかにも素朴で、高尚で、力の強い処があって、いうに言えない美しいものがある。誠に情味深々たるものがある。情はすなわち父子である。その上に、弾奏者に対しては、歌中の人物になれと教えている。歌中には大義名分が重きをなしている。そして歌中の人物になるから内容の動きがある訳だ。文に義を唱え、節廻しに情を訴え、而(※5)して内容の動きを重んずるところに周到なる用意と、人心を向上させる芸術の尊さを認められる。しかもそれに興味を持たせてある。これが薩摩琵琶の全部である。そして薩摩琵琶の出所は平家琵琶に発し、平家琵琶は雅楽が生んでいる。雅楽は現在宮中で行われているし、平家琵琶は  天皇で名手が在らせられた程だし、また薩摩にしたところで日新斎ほどの人物が生んだものなら決して下品なものではない。高尚典雅なものであると同時に剛健素朴なものである。もし柔弱にして卑俗なるものならば、それは既に薩摩琵琶から相去るはなはだ遠きものである。

※4)砌(みぎり) 時節、おり、頃
※5)而(しこう)して そうして、それから

錦琵琶 橘流筑前琵琶
永田錦心の門下の水藤錦穣という女流が「錦琵琶」というのを作った。これを作る時には私もちょっと相談を受けた事もあったが取り立てていう程の事はない。そしてこの錦琵琶はいかなる方向に進み、いかなる形になるかは未だ前途洋々たるものがあるが、考え次第で将来相当なな勢力を獲るだろう。橘流筑前琵琶には、薩摩琵琶の風が以前から相等入っていたが五絃琵琶に至っては薩摩の手が多分に取り入れられてある。その主たる部分は私の方から行っているので以前は随分私の方へ薩摩の弾法を習いに見えたものだ。将来これも面白い発達があろうと思う。とにかく橘流は組織もよく出来ているし、かつ相当識者が後援しているからその発展はめざましいものがあろうと思う。

薩摩琵琶の歴史の梗概と批判及びその要素 おわり

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