[琵琶読本] 音階と余韻

音階と余韻
 いかに「間」が大切であると言っても「手かず」のない所に「間」はあり得ないのだから「間」を覚えるには「手かず」はもちろん覚えるに決まっているが、さて、「手かず」と「間」とを覚え込んだら次には「音階」に充分な注意を払わねばならない。

 さて、薩摩琵琶では音階について初歩のあいだで最も難しいと感じるのは、弦を締める時よりも、少しも締めないで弾くことの方が難しい。初歩のあいだはどうしても締め気味になる。私は今日まで多くの人に教えての経験であるが、「そこはごく軽く、ただ柱に弦が付いているという程度でよろしい」と言ってもすこしは締める。それから少し進んでくると、締めてはいないが、弦の柱に付いている場所が言い換えれば、ごく軽く弦を押さえるのであるから全面から見て、弦が一直線をなしていなければならないのに、必ず右か左かにふれている。それを考えずにこうした間違った弾き方に合うように調子を作るか、さもなければ柱の位置を更える。それが為にいろいろな「手」を弾く打ちにずいぶん激しい変な音が出るようになる。これは初歩の人は特に注意すべき事である。

 次に難しく感じるのは、音の上げ下げに角張った点である。それは一箇所で弦を締めたり緩めたりするのであるだけに常に音を引きずることになる。だから一の音から三の音にするような場合に一から一足飛びに三にはなかなかならない。それは音階を作る左の手すなわち指の方が、撥と一緒の時間に動かない、どうしても撥の方か、左手の指の方か何かに動かす”時の遅速”ができる。それが為に余計な音が混入してくる。

 以上のことは、こうして述べればなんでもない事をいうと思うかも知れないが、大部分の人達が以上のことに対してあまりに無頓着であるから殊更に述べる次第である。
 大概の人は、以上の三つの事をはなはだお粗末にして、ただ弾法の「手かず」のみに走るけれども以上の三つが呑み込めていないから終いまでものにならない。

余韻の活用
 次に一苦労するのは「余韻」である、これを完全にやれる人ははなはだ稀である。正派はこの余韻を特にやかましくいうが、実際において余韻の貧弱なものや、余韻を尊ばない薩摩琵琶ほど無価値なものは世の中にあまりなかろうと思う。日新公が余韻を活かす為に「柱」の数を減らしたことは誠に故あるかなと肯定できる。
 また、余韻を活用する活用できる方法を故人は教えておいてくれた、それは余韻で音階を作ることである。我々琵琶の仲間ではこれを「余韻の変化」と称している。
 洋楽家の仲間では「余韻の変化」などないと言う人もあったが、洋楽になくっても薩摩琵琶には立派にあるし、それにこの言葉で充分お互いが理解し合っているんだから別に問題とする必要がない。

 ピアノなどは、一つ打てば一つだけそれっきりの音であるからその余韻は少しも変化しない。しかし薩摩琵琶ではある音を撥で打って出す、そしてその後の韻のあるうちに弦を締めたり、また緩めたりする、そこに変化が起きる。これを称して余韻の変化というのである。その変化は「手かず」によって種々異なったものがある、稽古する人はそれらの変化に注意して、音階の数とか、および「間」を覚えることが肝要であるが大概の人はそこまで注意を払わない。

 例えば師匠がある音階を出す。そしてその余韻を変化させるのにそれを教えられる弟子の方では、表面の音階だけは注意して直ぐにあとの余韻を耳に入れずにもう表面の音階だけを出す。師匠の方では余韻を教えるつもりなのを、弟子は余韻はとんと耳に入れない。この種の人がはなはだ多いのには驚かざるを得ない。

堅実な覚え方
 教えられる時には、師匠の弾き出す音色を余韻に至るまで充分に聞き取って、それから自分が弾くようにするのが一番堅実な覚え方である、それをやらずに極めて不注意に師匠に付いて弾いたところで決して深さまでは覚えられない。そしてこんな不注意な習慣を付けると終いまでいけぞんざいな芸になってしまう。なかには後に気が付く人もあるが、余韻のだし方の未熟なるため上手くできないので余韻でやらずに撥でやる。こうなると品位のない足軽芸になる、それから余韻を尊ばない人は冴え取りが下手である。

冴えを取る
 「冴え取り」とは、楽器のサワリを付けることである。つまり音の冴えを付けることであって、これは鹿児島県の方言であるのが今では一般のテクニックとなったのである。

バイブレーション*
 それから、中には左手(弦を締める方の手)を故意にむやみと震わせる人もある。これは洋楽でいうところのバイブレーションであるが、あれは自然と手が震動する時期が来るのであって故意に震わせるのではなく、無意識のうちに震えるのであるが、それを故意に震わせるとはなはだ妙テコなものができる。私の友人がこの故意に震わせる人のを聴いて、こんにゃくの婆さんが地震の孫を背負ってきたようだと笑ったが適言だと思った。特に故意に震わせてそのまま癖になった人は一層聞き苦しい。
第一初歩のうちからこうしたやり方をすると「間」を崩すし、また芸がはなはだ下品になるものだ。

 手を震わせるのは、一口に言えば音の上の艶を付けるのであって、無理にあるいは故意に付けた艶はラック塗り(*ラッカー塗装?)の艶と等しく深さも、味も、気品もない。かつはなはだ不自然である。やはり拭きこんだ自然の艶のほうがはるかに妙味があり、また上品である。どうぞラック塗りの艶は止していただきたいと思う。

*) ビブラート

     ○

賢ならんより真面目なれ
歩く前に這う事を学べ

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