[琵琶読本] チャチャンの撥

チャチャンの撥
 チャチャンの撥使いは難しいものとして昔からいろいろに言われている、「一撥二音」とか「二丁撥」とか、その他種々やかましいことを言うが、人によると歌い出しにチャチャンと正確にやることだけで聴衆を静め得るとまで言っている。また歌い出しにチャチャンが完全にさえ行けば、その曲の歌が全く具合良く出来るという人もある。してみるとチャチャンの撥使いは一曲を左右するものである。少なくとも言者はチャチャンなるものがよほど気になるらしい。そして数あるチャチャンの中でも特にこの冒頭第一に聴衆の耳へ入れる歌い出しのチャチャンが就中気になると見える。

 私はさほどに勿体をつける程の事もあるまいと思う。もちろん弾法の冒頭第一に弾く技であるから「チャチャン」と調子よく行けば気持ちがスーッとして自然と歌うのも壮快を感じ、明るい気持ちにはなれるが、しかしあんまりもったいを付けるとかえって弾奏家の気持ちが固くなって具合良くやれない。

チャチャンのできない原因の大部分
 諸君もご存じの通り「チャチャン」とは、チャン、チャン、と二度やるのを出来るだけ早くやることである。あたかも見ていると一瞬でやる如く見えるくらい電光石火の早さでやるのだが、そうしたやり方は三味線にもある。けれども三味線のチャチャンよりも琵琶のチャチャンの方が難しい。だが、その難しい技も心の持ち方で案外それほどに難しくもない。その訳は、

「チャチャンを弾こうと思い過ぎるから難しい」
「チャチャンは難しいと思い込むーつまり『難しい』と自分で自分に暗示をあたえるから難しい」
「チャチャン」はできない技である、と自分で決めて自分で腰を抜かしてしまうから難しい」

 以上三つの心持ちが、チャチャンのできない原因の大部分を占めているのである。であるからチャチャンに対してはあまり考えすぎたり、固くなったりしてはいけない。こうした考えを持っていてはたとえチャチャンが出来たところで、その芸ははなはだ小さな、まったく貧弱な芸である。大刀でズバリと斬るような雄渾(※1)な芸はできない。

※1)雄渾 (ゆうこん) 雄大で勢いのあること

故事のたとえ
 昔、沢庵和尚が、馬術の奥義を禅の方から教えたことがある。それは、あるときある馬術家が、愛宕山の石段のような所を登った。登ったことは登ったが、さて降りるとなって心が臆したのか、とにかく降りられない。大いに弱っていると沢庵和尚が、

「鞍上人無く、鞍下馬無し!」

と大声叱咤した。この一言でその人は恬然と大悟して、易々とその石段を乗馬で、しかも堂々と降りた。もっともこの馬術家は相当の域に達してもいたし、また参禅もしていたには相違ない。それが為に因縁熟して沢庵和尚の一言で忽然と大悟したのであると思う。いかに沢庵和尚が偉くても、全然馬術もなにも知らない人に向かって僅か一息で済む程度の寸言で、一躍馬術の名人たらしめることは不可能である。

 ところで諸君は未だ琵琶を持ったことのない人ではなく、既にチャンとかギンとかが出来るようになった以上は、チャチャンのできないはずはないのである、ただ一つ、沢庵和尚の馬術家に教えた寸言を味わうことの如何に依って決するのである。今試しに

「弦上撥なく、弦下琵琶無し!」

と思って見給え、恬然として大悟するであろうと信ずる。

初心者向けアドバイス
 最後にごく初歩の人達のために「チャチャン」の撥使いをちょっと述べさせてもらう。
 チャチャンは、前述の通りチャン、チャン、と二撥を素早く、一撥のごとくにやるのであるが、初めの「チャン」は撥面に撥の当たらないように、そしてチャンが”チャッ”と鳴って未だ「ン」と響かないうちに次のチャンを弾くのである。だから極めて早い、そして二度目の「チャン」は撥面へ撥が当たるように弾くのである。けれども両方とも撥は強く使うようにしなければならない。
 この二度目の「チャン」すなわち「チャチャン」の「チャン」を弾いたときは、撥を流すようにする。流すのは、まずひじを円心として手首で円を描くつもりでやってみ給え。けれども円心を一カ所に固定させる必要は筆先ほどもない。だからひじを円心とするというよりも、肩を円心とすると言ったほうが適切かもしれない。これ以上は自得の他にしかたがない。説明すればかえって初歩の人を誤らせる。

     ○

青山元不動白雲自ら去来す

琵琶読本 目次へ

Posted in 琵琶読本

コメントは受け付けていません。