[琵琶読本] 弾法練習の時の心得

弾法練習の時の心得
 弾法を練習する際には、必ず前後に歌があると観念して練習すべきである。例えば「切り」の手を練習する場合は前の歌の文句を受けて、また直ぐ後ろへ「大干」の節が来ることを観念して練習するのである。
 更にもっと仔細に考えて、広瀬中佐なら広瀬中佐、その他何でもよろしい、とにかくある種の曲を演奏していると観念して弾法の練習をすると好結果を得られる。常にこの気分を忘れてはいけない。決して弾法は弾法として独立したものの如く観念して練習してはいけない。

弾法の役目を考えること
 弾法は、例えば女房の役である(これは後に説明)、だから弾法の練習は娘を仕込むのと同じである。娘の行く末は「妻」というものになることを考えずに育てると失敗する。
 弾法を「歌」という対象物に考慮を払って練習しないと、結果において片輪の芸になる。それを考えずに、弾法は弾法のための弾法のような練習では歌と適合しない全く別々の芸になってしまう。なので正しく弾法を「歌」と対なものとして観念し、また先に述べた弾法譜本とを参考にすれば、師匠がここをこんな風に弾け、と端的に注意も教示も出来るし、教えられた人も心覚えを書き込むことも出来れば、忘れたところを思い出す方便にもなる。のみならず確かに早く覚えることができる。

弾法譜本の創始者
 薩摩琵琶において弾法の譜を考案し、そして最初に用いた人は、今の藤井義次氏の巖父にあたる四元義一氏である。
 氏は西郷南洲先生の命で西洋音楽の研究をされた人で、我が国の軍楽隊の最古参者で、かの”君が代”の作曲にも多大の助力を致した人である。この譜を用いて故吉水錦水氏(初代錦翁)が、また本を作った。その後に私が大正二年頃に譜本を出した、そしてその譜はやはり四元氏のものである(多少は変わった点がなきにしもあらずだが取り立てていう程ではない)。

 この譜本を用いると非常に好都合で、覚えるのにはなはだしく骨折りが省ける。しかし、なるほど早く覚えるが本ばかり見ていて、撥使いや態度を習わない、つまり先生の弾き方を見ずに本のみを見ている。このために撥使いや姿勢に発達がない人もできて来る。しかしこれは本の罪ではない。習う人の心の働きが充分でない為である。こんな事を言うと恨まれるかもしれないがこれは本を利用するか、本に利用されるかの違いであって、要するに人間の価値問題である。

内容の充実
 私は常に「手かずを覚えたら本は片付けて(心覚えに書き込むくらいはよいとして)努めて教師の撥使いや姿勢をよく注意するが良い」と門人に注意している。そしてその通りにやっている人は皆立派に弾くようになっている。
 しかし譜本を用いると覚えるのに骨が折れないから進み方が早いので、読書でいえば流覧一過と同じことになって内容が充実しない。これも本に捕らわれるからで、手かずの進み方を早めずに、少しあて進んで充分に練習するようにすれば結果はかえって骨を折らずに実力が付くわけである。要するに弾法譜本を利用するか、譜本に災いされるかは、その人の心の働き如何にあると思う。

     ○

徒に本を読むは一啜の酒を急に飲むかぬし(スマイルン)

     ○

完全なる一曲は、不完全なる十曲よりも遙に勝る

琵琶読本 目次へ

Posted in 琵琶読本

コメントは受け付けていません。