[琵琶読本] 美声家の不注意

 昔から「一声ニ節」といって声は大切なものとされてはいるが、実際声の美しい人は1割方利がある。けれども美声家には油断が多い。油断の結果が知らず識らず邪道に陥る。これは自惚れと梅毒(かさ)つけとが人間につきものである以上免れ得ないのかもしれない。

 声の良い人は天興の優越権を正常に行使せずに、反対に使役されるか、濫用するかの二つである。いすれにせよ、声の良いのに任せて技巧をもてあそびすぎたり、またはちょっと人気が立つと調子づいて一層ケレン(※1)を用いてみずから墓穴を掘って行く、そして「俺は声で戦うんだ」と豪語しないまでも、その気配がはなはだ濃厚である。しかし如何にがんばっても声ばかりを頼りにするのは誤った考えである。
 そもそも声は芸のうちに入らない。ただ芸を助けるだけのものである。それを芸として取り扱っている者は幼稚な聴衆と、謬見(※2)に捕らわれた弾奏家と、エセ非評論家だけである。

※1) 外連(けれん) 奇抜な仕掛け、はったり
※2) 謬見(びゅうけん) 誤った考えや見解

悪声の人の力
 私は大阪へ行くとよく文楽へ義太夫を聴きに出かけるが、私の聴いたのでは名人ほど悪声であった。そして聴きに行くのは研究のために行くのだから至極冷静に、ほとんどあら探しに出かけるのだが、どうしても釣り込まれて泣かされてしまう。口惜しくてたまらないので、今度こそは泣くもんかと覚悟し、またどの点で泣かされるのかその正体を見届けてやろうと腹を据えて出かけてもやはり駄目だった。しかも私を泣かせる太夫はことごとく悪声の人達ばかりであった。

美声の人の力
 義太夫は語りものであるとはいえ徹頭徹尾(※3)そうでもない、歌うところもある、けれども美声家で私を泣かしめた人は一人もなかった。それはなぜであるかは直に分かった、なぜにということを考えるほどに私に余裕を与えてくれた。芸を聴かせていながら、聴者たる私を芸の中に引き込まずに、全然客観させないほどに彼らの芸は力が弱かった。
 義太夫は、たとえ歌うべき所があっても、要するに語りものという事が根本である。しかるに美声家はやすやすと歌ってしまった。そして私の頭には曲目の中の事柄については何の印象も残さなかった。

※3) 徹頭徹尾(てっとうてつび) 一貫して、あくまでも

得意に溺れず、不得意に負けず
 私は一歩退いて考えるに、名人になるにはどこまでも自分の得意な点に溺れてはいけない。同時に不得意な点に負けてもいけない。自分が悪声であれば「悪声」だと自覚してその悪声の為に一層奮発心を起こして、他にこれを補う事を心がけねばならない。つまり自己の充実を計る必要がある。かの幼稚な、または低級な批評家や、聴衆の人気不人気を気にしないで、目標を大処高処に置いて最後の勝利を得るべくどこまでも正しく進むことに努力し、「声何物ぞ!」の雄大なる心で勇往邁進(※4)すれば良いと私は思う。

※4) 勇往邁進(ゆうおうまいしん) 目標に向かってまっすぐ進むこと

 また、声の美い人は自分の声に引きずり廻されないで、自分の声を利用するだけの冷静さを保ち,着実な注意を以てすればそれこそ鬼に金棒である。実際琵琶会などで聴いてみるのに美声家で実のある歌をうたえる人はむしろ絶無に近い、かえって悪声の人と言いたいくらいの人の歌には不知不織引き込まれて、そして聴いた後までも歌中の事柄がグンと印象される、これらの点はよほど考えるべきだと思う。

 いったい声のみを頼りにすることの謬見なるは他にもこれを証拠立てることがある、すなわち声は体力を伴うものである。老衰すれば声も衰えるの決まっている。若い時代には声で通せても一度老境に入れば、あるいは病気にでもなればもうそれでおしまいである。殷鑑(※5)遠きにあらず、諸君の周囲にその実例は多々あるに違いない。

※5) 殷鑑(いんかん) 悪しき前例、悪い見本

修養なき美人
 芸の上での永い生命は声のみによって保てるものではない、声以外の誠実さと、頭の働きとが永い生命の根本である。声はその補佐役である。
 世の中には鬼に金棒という言葉があるが、金棒ばかりでは何の用もなさない。鬼があってこそ役に立つのだ、声は金棒である。鬼は誠実とと頭の働きとである。鬼は金棒が無くても働き得る。誠実のない迎合的な美声、頭の働きのない無知の美声、これらは芸術に何らの価値もない、あたかも教養なき美人の如く、またペンキ屋の書いた屋根看板の字の如きものである。

     ○

よく泳ぐ者は良く溺れる

     ○

平井権八は自分の所持の村正で自分を殺した

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