[琵琶読本] 歌のうたい方について

 確か西郷南洲(隆盛)翁だったと記憶しているが、「人と語るのに語尾に力のこもっていない者は軽薄者である」と言ったが実に至言(※1)である。また古人は「終わりを完う(※2)する」ということを教えている。

※1) 至言(しげん) 物事の本質を言い当てていること
※2) 完する(まっとうする) 最後までやりとおすこと

語尾の終わり
 実際語尾に締まりのない者にろくなのはない。これを琵琶の芸に当てはめてみると、語尾に力のこもらない、まるで消えるようなのははなはだ軽薄な歌である。または未熟な歌である。そしてこんな歌を歌う人の弾法もまた終わりに締まりのない軽薄なものであることは至るところに実証はある。それが名人になるほど語尾に力がある、しまりがある、弾法もまた然り、これは琵琶のみでなく他の芸でも同じである。

名人の芸
 名人というものは単に技巧のみのものではない、正しい観念を持った、そして技巧もまた卓越していなければならない。真の名人は弾奏中は実に至純(純粋)な人である、これが為に人に感動を与える。
 それから芸術の極致と道徳の極地とは一致するのだから、真の名人の芸には侵すべからざる尊さがある。そしてその尊さが聴衆の心にひしひしと乗り移って聴衆は同化されてしまう。

   四の緒の絲の調べにつながれて
         鬼さえ人の数に入りけり

と、島津日新斎が詠んだ歌もこれらのことから出たものと思われる。しかし近頃は僅かに小手先が器用に働き、節回しを上手にやって、声さえきれいであれば直ぐに名人という尊称をくれる俗批評家や、低級なジャーナリストが増えたので名人がずいぶん沢山できた。名人は一代に一人あるかなしのものだが、機械文明のおかげで大量生産という事になったらしい。

 名人の弾奏には気品はもちろんのこと力がこもっている。弾奏にも歌にも必ず締まりがある。ここに礼楽(※3)としての価値を認められる。試しに鄭衛(※4)の音を聴いて比較すると、直ぐに会得できるだろう。その語尾に力と締まりのあるようにするのは難しいが、そのつもりで気をつけていればはなはだ早く出来るようになる。そしてかかる注意は自己の趣味性を高尚にさせる。趣味性が高尚になるにつれて軽薄な歌は歌えなくなる。

※3) 礼楽(れいがく) 礼節と音楽、転じて文化の意
※4) 鄭衛(ていえい)の音 古の鄭と衛、二国の音楽が共に淫らで人心を乱すものだったのでわいせつで風俗を乱す音楽の事

 それから「狆(※5)の顔と琵琶歌は長いのはよくない」と昔の人は言ったが現代でも長いのは良くない。弾奏にだらしがなくなり少しも面白くないし、時間の上からしてもはなはだ迷惑を感じる。二十分で済むものを三十分も四十分もかかられてはたまらない。
下世話にも言う「下手の長談議」

※5)狆(ちん) 愛玩犬の一種

個性の充実
 それなら短いのが良いかといえば、短すぎても困る。
 また、元気よく歌うと荘厳味がなくなる。荘厳味を充分に現すようにすると元気がなくなる。締まりのあるように苦労すると粘りも潤いもなくなるしなかなか難しい。そこで荘厳で元気があり、締まりがあって潤いのある歌い方は以上のどれへも偏ってはいけない。それならどうでもよいかといえば結局自分を育てる以外なにもない、つまり個性を充実させるしかないという事である。

     ○

芸術は人格の反映なり

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