[琵琶読本] 発音についての注意

発音には充分の注意を払っていただきたい
 発音について、かつて私にこんな事を言った人があった。
「一度や二度ぐらい聴いて分かるような歌い方では駄目だ、度々聴いているうちに分かるようになるのが良い」
 これを聞いた私は、あんまり馬鹿げているので開いた口が塞がらなかった。

 発音を無視してどこに言語があるだろう、言語なしに意思の表示をする歌はあり得ない。外人との交渉でなく、日本人が日本の芸をやるのに、しかも琵琶歌は内容の文句に留意しなければならない。他の節を主として聴かせるのとは出発点からしてすでにこの趣を異にしている。節も大切には相違ないが、文句は更に大切である。文句を分かるように歌ってこそ節の価値も現れてくる。しかるに「度々聴いているうちに分かるようになって来るように」などとそんな訳の分からない話はないし、第一そんな辛抱はできるのものではない。

言語は意思の表示
 発音が不正確でも節回しが複雑で、かつ面白ければ少しは我慢もできるがそれでも聴いていて物足りない。また分かりにくいために疲れが来る。まして薩摩琵琶は他の音楽からすると節回しが簡単である。ことに叙情的のものだけに気分と文句とて人を惹きつけて行くには文句が分かってこそ感激もある。これは筑前琵琶でも同じだろうと思う。私は常に「薩摩琵琶は文句が分かるから良い」と言われるように心がけている。
 けれども稽古中の人にとっては、発音を正しくやるということはなかなか難しい。それは注意力が声や節回しや弾法の方へ大方出払ってしまうから。無理ではないと思うが、発音ということを念頭に置いてやればよほど変わってくる。また発音を念頭に置かずにやって来たために立派に先生の看板を挙げていながらまるで言語の通じないような人もあるくらいだから特にご注意申し上げておく。

具体例
 以上お話ししておいて、さてこれよりちょっと注意すれば容易くできることで、不注意だと芸に締まりがなくなり文句が分からなくなってしまう例を二三挙げて見よう。

例1
 「春の調べ」という歌(新玉ともいう)の中に、『神の忌垣の老松も』という一句があるが、「忌垣の」の「の」を引くと、オーと響く。その後へ「老松おいまつ」と歌うのに、不注意にやると『神の忌垣のーいまつも』と聞こえる。これは最も多くの人が歌い損なう歌である。

例2
 「錦の御旗」に『武勇忠義の人多し』という句がある。「人」は(ひとー)と引くとオーと響くその後が「おおし」だから不注意にやると「ひとーし」と聞こえる。これは少々難しい。

例3
 「乃木大将」に『いざ跡追わん遅れじと』という句がある。「いざ」はアと響く、その後が「あと」であって「あと」はオと響く、その後が「追わん」である。これを不注意にやると「いざーとーわん」と聞こえる。

例4
 「彰義隊」に『勇むさまこそ雄々しけれ』というのがあるが。これも不注意だと「勇むさまこそーしけれ」となってしまう。

 幸いにして聴衆が文句を知っている場合は良いが、知らなければ分からない。また知っていても芸に締まりが無くなることは免れない。
 以上は不注意のためでもあるが、大部分は未熟なるために確実に表現できないのが多い。
 ところでここに不注意と無知のために間違えるのがある。その例を並べてみよう。

     正     誤  
観ず (くわんず ) カンズ
会見 (くわいけん) カイケン
念願 (ねんぐわん) ネンガン

 の類いである。また「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」、数え挙げればその繁に堪えない。そして今までに挙げた例は、至極容易に間違えるもののみであるが、その代わり矯正もまた容易である。ところで私にはその理由の分からない間違え方を聞いたことがある、それは

「さる程に」というのを『さるほどにゅぅ』というのである。
「忝くも大君の」は『忝くも大君のぁ』
「我もし生き延びたらば」が『我もし生き延びたらぼぅ』
 
 これらは何の理由でこんな妙ちきりんな事を言って満足してるのか分からない。
 その他「命」を「いのぢ」、「六月」を「どっぐわっ」、「遺言」を「ええごん」の類いの間違いもある。これらは方言であるが、方言だから構わないという訳にはいかない。

 昔話にあるが、薩摩の殿様と仙台の殿様が話をする時には謡で話したというが、まさかそんな事もあるまい。とにかく芸というものはそれほど普遍的でなければならない。外国語すら習得する時代、日本人が日本の言葉を出来ない訳がないのだ。

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