[琵琶読本] 歌についての意見

 薩摩琵琶歌は数においてはかなり沢山あるけれども、質においては現代人の要求を満たすだけの歌や必要な歌がはなはだ少ない。その少ない中からやりくり算段的に選択した歌(軍歌など失敬して除外)、そんな苦しい算段をせずに無条件で受け入れられた上出来の歌等を合わせて、さてどれほどの数の歌が選ばれているだろうか? しかしその選択された歌ですらも現代の識者が聴いて佳良(優れて)なると肯定するか否か、はなはだ疑問とせざるを得ないほどに佳い歌は少ない。

 いわんや片言、間違い、方言などの多分に混入された古歌においてもである。しかし古歌の着想は実に良い、その上狙い所も結構なだけに残念な気がする。それが為に捨てるに忍びずそのまま間違いだらけで教え込んでしまうのもかなりあるようだ。

歌曲の数より質
 悪習をば尊い伝統の如く心得その重荷を無条件に担いで、不知不織のうちに滅亡の墓場へ落とし込んで行くことが果たして我々の踏むべき道だろうか?、一度活眼を開いて小さな感情を捨てて冷静に直視判断すれば、実際において歌曲の乏しいことに気が付くと思う。

ケース1 本能寺
 この乏しいものを更に乏しくしている人達もかなり沢山ある、今その一例を挙げると「本能寺」という歌がそれである。あの歌を二つに分けてしまう、そして多くの人は後半を歌う。
 すなわち、「さる程に」という言葉を置いて、そして直に光秀の謀反の実行の段に移る。聴衆も一部の人達は技巧つまり節回しや弾法に対して喜んで、少しも光秀や信長の主観に触れようとしない。ただ光秀が信長に不意打ちに戦を吹きかけてこれを殺したという修羅場叩きと詩吟ぐらいなもので、新聞記事か小学校の読本のごとき雑観なものは歌っている。しかし世間ではそうした刺激の少ないものには食い足りない程に頭が進んでいる。

山が多いから
 本能寺という歌は、前半の方に光秀対信長の関係がよく現してある、その点を演奏せずになぜに後半ばかりをやるのかと尋ねたら、申し合わせたように多くの人は皆「後半には崩れあり吟替わりあり和歌ありでなかなか山が多いから」と言ったが私は愛想が尽きて何も言えなかった。琵琶歌は叙情的なものであるから歌中の人物の心理表現を第一としなければならない。これをやらないと歌らしい歌にならない。ところがそれがなかなか難しい、そこでワーッと歌ってガサガサと弾く方がはるかに骨が折れない。難を捨てて易きに付くのは普通一般の人情である。この弱さがいかに薩摩琵琶の発達を阻害し、かつ世間からも「薩摩琵琶すなわち別世界」のような感を与えているかを考えねばならない。

琵琶界すなわち別世界か?
 本能寺の後半だけで満足した時代は初めからなかったはずである。それが二十数年前に日露戦争当時、号外の焼き直しのような歌曲が盛んに流行して一時的に鑑賞力の低下した時代の変態的現象に過ぎない。そして本能寺を後半だけ歌い始めたのは兒玉天南氏であった。本能寺という歌は客観的な書き方をした歌ではあるが(作者の主観は出してあっても信長及び光秀を客観的に現している)、それでも印象を与える所は充分にある。そしてそれはやはり前半である。
 仮に後半にもあるとしても前半を受けてやったなら一層印象深くなると思う。しかし後半では弾奏者の技巧という点に印象を残すところの方が遙かに多い。節、弾法、詩、和歌となかなか盛りだくさんである。そして前半の歌詞そのものは一般の中には分からない人があっても、信長と光秀の感情問題は誰もが知っているから僅かに承知できるが、今仮になにも知らない人が(後半のみ)聴いたならば、歌の気持ちとしては何が印象づけられるだろう。それについて本能寺の後半だけを聴いてきた友人の感想を尋ねたところが「刺身を食わせてもらおうと思ったがワサビだけ舐めさせられた」と返事したが面白い比喩だと思った。

ケース2 潯陽江
 次に例を挙げると「潯陽江」である。これもまた多くは半分だけに半分だけに切って謡われるが、本能寺と違う点は本能寺は後半だけだが潯陽江は前半だけが多い。私は二十六年の琵琶生活中に本能寺を前半だけやった人は聴いたことがない。また陣容江を後半だけやった人は、私の門下の西田長裕と、永江鶴嶺氏の門下で後に私のところへ歌を習いに来たことのある林鶴殿君と、この二人以外には聴いたことがない。潯陽江という歌は、前半はバックに仕組まれてある、バックで悪ければ予備知識的に仕組まれてあると言おう。それをうんとやっておいてそれから後半の白楽天対琵琶の主の物語りに移るように出来ていて、前半には充分の技巧を発揮出来るようにしてある。

 後半を歌う時に前半を確乎と演ってあれば前半が常に弾奏者も聴衆も頭を去らないで、いかにも月夜の夜に哀れな女の述懐談(※1)と、奥の奥まで見透かせるような空、人生の底の底までさらけ出されたような気持ち、これらが交互に現れ、渾然と一つになり、遂に一貫した人生の何物かを掴ませるように出来ている。それをば前半ばかりでは芝居の背景だけで役者が一人も出ないのと同じで舞台に穴が空いた事になる。

※1)述懐談(じゅつかいだん) 思い出話

 本能寺にせよ、潯陽江にせよ、作者は二段に切って発表してはいないし、またそんな考えも無かったのであるが、弾奏者が勝手に両断してしまったので実に良くない事である。その良くない事をする原因は、弾奏者の骨惜しみか迎合観念かである。弾奏者が節回しとか弾法とかの技巧 ーそれも末技であるー に走りすぎて本筋を粗末にする為といえるし、聴衆もそんな末技のみを聴いて満足しているということも原因の一つであるから罪は両方で分担すべきである。

時間的制限
 その他に近来の琵琶会は出演者の数が多すぎる。以前の如く四−五人でしたのから比べるとはなはだ多くなったが、時間の方は多くならない。昔から五時間は依然として五時間である。そこで弾奏者もなるたけ短い時間で歌わねばならなくなる。それ故短い歌曲を選ぶことになるが歌曲そのものの数(歌える歌)が少ないので、つい長いものを出すーところが時間は不足するーそこで半分にしてしまう、と言うことになる。こうなると芸の発表ではなく一種の労働である、それも不純な。この点からすれば会の主催者にも罪の片棒は担がせなければならない。これは弾奏者が真面目に考えるべき問題と思う。弾奏者が改めて聴衆や主催者をリードせねば永久に救われない事と思う。

 昔から、段物にしろ、端ものにしろ、文章の巧拙はさておき大部分は主観的なものであった。それが日清日露の両役に、新聞記事や雑誌記事さては号外などをそのまま飜訳して一夜作りに作者が競争的にキワモノとして歌を出した。それと昔からの詠嘆(※2)派の歌のごとく技巧に走りすぎた「あし引きの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜を独りかも寝ん」式の文章が伝統的に禍をなしていたので、客観的技巧派の歌が盛んに出来た。そして末技に執着している琵琶師が多かったために、及び日清・日露役の当時やっぱりキワモノが歌いたかった為に、それから古くからある歌は、多く島津藩というものに局限(※3)されたものが多い為に、一般的の興味が無かったのと、歌数が少なかった為に新曲へ新曲へと走ったのである。

※2)詠嘆(えいたん) 感じた事や感動を言葉や声に出して現すこと、感嘆
※3)局限(きょくげん) 一定部分に範囲を定めること

読むだけで面白い歌と弾奏して面白い歌
 新曲は大いに結構、はなはだ有り難い訳だが、号外を七五調に翻訳した程度の歌が大部分であった為にかえって琵琶界は芸術的に下落した。また文章的には立派に文芸価値が充分にあっても、読んで良いものと弾奏して良いものとの二種類がある。これらも考えねばならなかった事と思うが、それを考えずに文章だけでこれは名文だと思っていざ弾奏してみると一向気が乗ってこない。するとそのまま捨ててしまうのもずいぶん多かった事だろう、それらの名文を作る人に、よく弾奏価値のあるものはこうだ、と理解してもらって更に作ってもらえば良かったと思う。

 およそ人間の頭は使わないと退化する。そこで琵琶歌について考えてみるのに、技巧だけで満足して、更に骨惜しみという方面が伸びて、昔からの芸術方面の精進を怠ると、趣味性もおいおい低下してしまうのは当然である。「ここに独りの強者がいた、敵陣に斬り込んで多数の人を殺した。勇ましいことだ、名誉である。皆もこの通り豪傑になれ」という程度の歌は、歌いこなすのにはなはだ容易である。これらは単なる末技と元気よく声さえ出していればできるもので、そして真の技巧を用いる必要がない。同じ事なら人を殺すのは罪悪である。

 しかしその罪悪をあえて犯すのはその罪悪感より以上の強い或るものがあるからであるという点や、一つのジレンマ(※4)に立って人間苦に悩み抜くというような強い刺激のものが欲しいと思う。私は詩を謡いたい、新聞の切り抜きや、雑誌の切り抜き書は御免被りたい。いわんや号外の飜訳において尚更である。またいたずらに高踏的(※5)のものも困るのである。

※4)ジレンマ(dilemma) 相反する事柄の板挟みに陥る事、またその心境
※5)高踏的(こうとうてき) 良く言えば世俗を超越して孤高を保つさま、悪く言えば独りよがり

作詞者に対するモラル
 しかし一方から考えると琵琶師は、また琵琶会の主催者は、琵琶歌の作者に失礼な事をする。それは、第一が作者に無断で歌を改ざんする。それも作者が物故(※6)したとか住所不明とかなら仕方もないが、生きて立派に所在も分かっているのに勝手な事をする。それからプログラムに作者の名前を載せるのも私が度々注意したが実行しない。それで先年その範(※7)を示したところそれでもそれを抹殺しようとしたほどである。近頃ようやく実行しかかったがそれはほんの一部分に過ぎないのはむしろ恥ずべき事である。作者を尊重しないから歌も作ってくれない、当然である。

※6)物故(ぶっこ) 人が亡くなること、死去
※7)範(はん) 見習うべき手本

     ○

一厘惜しみの銭失い

     ○

あふけなき世々の昔も夢ならで間近く見るは文にぞありける

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