[最近琵琶発達史] 第二章 薩の国境を出で

 明治の初年、早くも県人会その他の席上に出でて薩摩琵琶を東都(東京)に紹介したのは山下利助君であった。「淵源録にも『山下利助は人も知る如く愛嬌滑稽を以て称せられた云々』と書いてあるがごとく当時気軽に各所へ出演したであろう事は想像に難くないのである。それから同じ「淵源録」に出ている「かえって東京に来てからいわゆる大家になった」という竹の熊さんこと故家弓熊介君がドシドシ各会に出演して大いに気を吐いた。蓑田春堯老人については私は良く知らないが、ある人の話に九段下のしるこ店遠州屋の二階が貸席になっていてそこでしばしば演奏会をやり砂糖をチビチビなめながら聴いたものであるという。また春堯老人が柔術の道場などで懸命に唸っているところをみんなしてそっと帰ってしまったなどの罪深い茶目をやったが、我々は春堯老人によって大いに教えられたものであると感慨深く言う者があった。

 前記の山下利助、家弓熊介等はいわゆる町風を代表する人々であったが、士風を代表するところの那須祐直、平豊彦君等の巨星が相前後して乗り込んで来てからはいよいよ盛んとなり、徳田流の丹山静徳君なども活躍されたのである。那須、平の両君は当時の大立物でありはた中心人物であっただけに出演の際は俥(人力車)を以て迎えに来るという豪勢さだった。一方には寺尾彭君らが登場し来て妙技を揮ったのである。それから有名な神田橋畔の和強楽堂に旗上げしたのはそもそも寺尾彭、肥後錦獅、那須祐直の諸君であって、浜中仁三郎という人の骨折りで教育会寄附演奏会等度々催したのが導火線となって斯道に馳せ参ずる者すこぶる多くなり、かつ和強楽堂をして琵琶には附きもののように想わせるに至ったのであった。特に明治三十六年三月八日吉水錦翁を盟主に錦水会を組織して小田錦虎、肥後錦獅、小田錦豹、戸田錦蠎、加藤錦鶴、橋本錦亀、小田錦蝶ほか一名並びに作歌者小田錦蛙君などという動物名の豪傑達が打って出たことは有名な話であるが、一般に斯道を普及すべく標榜して起こっただけにこの一派の活躍ぶりはもっとも目覚ましかった。

 彼の日露戦役起こるや斯道は遽然(にわか)として全盛を極めた。士気を鼓舞するに足る絶好の音楽として歓迎されたのであった。錦翁こと吉水經和君は作歌者としても名高く当時一方に覇を称えていた大家である。しかるに明治四十三年二月六日溘焉として白玉棲中の人となってしまったのは痛惜に堪えない。斯界の長老として今尚畏敬されつつある故木上武次郎君が、伴彦四郎翁の遺風を伝うべく盛んに奮躍したのは明治三十九年から四十五年の間であったと聞いている。肥後錦獅君曰く「故木上師の如く人格の高潔なるは稀にみるところである」と、また曰く「当時はまったく耳の学問であって諳誦(あんじゅ※1)によってなされたのであるが、今から思えば実に隔世の感がある。それを礼金を貰うということを非常に卑しみ、もし去る人あらば腕力に訴えて制裁を加えたのである。要するに芸人でないという意気と、それに各々職業を持っていた関係もあるが、精神教育の為将勇気を鼓舞するために弾奏するのだという以外に砕けた考えは持っていなかった。だから謝礼を包みのまま投げつけて意気揚々と帰ってきたなどの話は決して珍しくなかったのである」と、以て当時の弾奏家の気概を知るべしであろう。しかし勢いに乗じて多少堕落した者もあり、東京朝日子の痛棒を喰ったのは苦々しい。更に池田天舟君の恩師にして名手である兒玉天南翁も一時上京されたが不孝病を得て不帰の客となったのは惜しみても尚あまりあるのである。

※1)諳誦(あんじゅ) 覚えていることを声に出して読むこと

第二章 薩の国境を出で おわり

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