[琵琶読本] 師の芸を聴く機会を逃すな

 故吉水錦水翁が門人に「稽古場で教えるには、大勢の人に一人で一人一人に教えるのだから骨が折れる。そこでなるだけ骨の折れないように芸に真剣にならず、ただ形式だけにしてでき得る限り自分の体力の続くようにするから、ここで教えるのは真の私の芸ではない。私の真の芸を習おうと思う人は私の出演する会へ必ず来て聴いてくれ」と言われたそうだが、これは実に偽らざるかつ親切な言葉である。

理想と実際
 理想としては、教える時は一生懸命になって、気分から意気込みから何から何までことごとくキチンとやらねばならない。けれども体力的に続くものではない、しかしその体力の問題はさておいて、問題は歌の気分である。それは一人一人歌が違う以上、今、本能寺を教えるからその気分になり歌中の人物に自分がなる。次に直に石童丸を教えるとその気分、という具合に。それも朝から晩まで続いてくる。そしてそれが一人一人違った歌を習うとなれば他の芸はいざしらず、薩摩琵琶では一人一人を気分から何から何まで完全に模範を示せるものではない。そんなことは言うべくして行えないものである。

 稽古場では単に型だけしか教える事ができない。その欠点を補うために私は以前はいつも稽古が済むと一曲(通して)必ず歌ったもんだが、疲れたり時間がなくなったりして、ついそれも出来なくなったので近来は教えるだけになってしまった。実際のところ、吉水さんの言ったことは少しも虚飾のない親切な言葉である。

 稽古はいかなる先生でも、一曲全体を一度に教える人はない。皆小刻みに刻んで少しづつ教える。そこで一曲まとまって先生の芸を聴く機会がない。だから稽古場の稽古のみで満足したり、それでよいと思っていると自分の芸は部分的な、生気のないものになってしまうから、この点を特に注意して出来るだけ自分の先生の出演する会へは聴くに行くようにして、それを自分の習った芸の土台としてよく聞き分けると上達は非常に早いことうけあいである。

     ○

眼あれども見ず、耳あれど聴かず (聖書)

     ○

賢者は耳長く舌短し (独諺)

琵琶読本 目次へ

Posted in 琵琶読本

コメントは受け付けていません。