[琵琶読本] 自己を育てよ(1)

 芸術ということにはなかなかやかましい議論がある。曰く真、善、美…… しかしこんな難しい事はよすことにする。そんなやかましいことは学者に任す。そうしたことは人の議論を聞いている方がよほど面白い。で、私は私の頭の程度の事だけを、極めて通俗的に述べたいと思う。

弾奏の目的
 元来、弾奏は情を移せばそれで良いのである。情を移すには歌中の人物なり、事情なりを躍動せしめねばならない。しかし単に情を移すだけなら談話でもできる。けれどもその談話の心持ちに節曲というお化粧をする、これで芸の形ができる。そこへ感情を超越した無色透明な琵琶の音色が入ってくるので深みができてくる。琵琶の音色は感情を超越したる無色透明なものであるから歌の情や感じが移ってくれば、次に謡いだす文句の気分も作ってくれる。それで根本に「情を移す」とあるからにはその内容が動いていなければならない。つまり歌中の人物なり、事柄なりに自分がまず感じていなければならない。もし自分が感じていないときは、聞く方もまた感じないに違いない。

「礼記」の一節
 内容が動いているから外形に現れる、これで芸になる。内容が動いていないのに外形だけ動かしたところでそれは盲動であって何ら効果がない、内容の動きー つまり自分の心の動きが節回しや弾法を御して、聴者の耳から魂へと打つ付かって行くのである。要するに魂と魂との接触である、そこで「礼記(※1)」という本にも、「音は人の心に生ずるもの也、情は中に動く、かるがゆえに声に形(あらわ)る」と教えてあるが至言である。

純情
 乃木大将は乃木大将として演奏せねばならないことは当然であるが、それには乃木大将を理解せねばならない。理想から言えば乃木大将の全体を知りたいが、そうした事は不可能の場合が多い。なぜならば琵琶歌数百番の曲目全部に渡って歌中の人物を生まれてから死ぬまでの事やその人々が事件に直面した時の心理まで呑み込む事は出来ない相談であるかもしれないから、これは理想として置くが、しかし歌に現れた部分は理解する必要があると思う。そして乃木大将の歌に感激するだけの純情がなければ歌は謡えるものではない。

 技巧ばかりにとらわれて乃木大将が夫婦して愚痴をこぼしていたり、赤垣源蔵が兄の家で啖呵を切っていたり、信玄勢と謙信勢が川中島でジャズダンスをやったり、小督と仲国が嵯峨野の奥で噛み合いの勇壮活発や石童丸の親子喧嘩の一幕演出などはけだし持て余しものである。これらはみな頭の働きと、修練の不足から生まれる奇形児的芸術である。人間でも未だ骨の柔らかい若者の産んだ子は身体が弱い。それと同じく修練を摘まない人の芸は弱々しく、人を惹きつける力が乏しい。

魂と魂との接触
 繰り返して言うが、芸は要するに魂と魂との接触であるから、緊張した魂の籠もった緊張した芸であらねばならない。けれども緊張した魂と言っても、洗練されない俗悪な魂を接触させられては聴者はすこぶる困惑する。古人も曰く「芸術は人格の反影也」と、それなら人格を育てるには我慢すれば良いかといえば別段難しいことはない、日常の目に曙、耳に聞く事は注意していればみなみな好個(※2)の修養材料である。

 しかし一番手っ取り早いのは、歌仲の人物になる心がけである。琵琶歌は「義と情」で固まっているものであるから歌の一字一句を味得すれば実に好個の修養である。ただし読書欲のある人は充分に本を読めば結構であるし、先覚を訪ねて自分の向上を計るのもまた結構である。とにかく琵琶歌を注意深く修練する事は直にそれが人格向上の糧となるのである。

 西洋音楽は科学的である、日本音楽は叙情的である。科学的なものでも演奏するのは人間である以上、心さえここにあれば情は移し得る。その証拠にはゴドフスキーのごとき、ベートーベンのごとき、皆充分に情を移している。いわんや叙情的な琵琶歌を、日本人が演奏して情を移せない訳がないのである。

※1)礼記(らいき) 中国後漢の時代の礼に関する記述をまとめた書
※2)好個(こうこ) 丁度良いこと

     ○

悪しき教えは学び易し
博学の人必ずしも賢ならず
実例は訓戒(※3)に勝る
書を読みて思わざるは食して消化せざるが如し
智は気品を導くに非ずんば愚なり

※3)訓戒(くんかい) 事の善悪を諭し、戒めること。

自己を育てよ(2)に続く
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