[琵琶読本] 某会を聴くの記(中)

歌の経緯
 また考える。
 襦袢を着ていたのを止して半袖シャツへと着替えるととても暖かい。ところがそれをさらに長袖シャツへと着替えると今度は前よりも暖かくなるが、腕が温かくなっただけその代わりに背筋が寒くなる。歌でも一句平均に始めから終わりまで力を入れて歌うと長袖シャツに着替えたのと同じく力に物足りないところが出てくる。抑揚も必要だが息の強弱も必要である。揚を経とし、息の強弱を緯として歌というものができる。

琵琶は歌いものか語りものかあるいは
 さてそれから琵琶歌はいったい語り物なのかしら?語り物であれば節は二の次で、まず文句を分かるようにして情を移せばそれでよい訳である、しかし節回しもなかなかやかましい、してみると(琵琶歌は)歌い物?歌い物ならば文句は大して問題ではなく、節回しを面白くやればそれで良い。区切りなど大して注意しなくても構わないように思うがやはり文句も区切りもやかましい。

琵琶は感じ(る)物、させる物
 すると(琵琶は)語り物でなく、歌い物でもなくなんだろう? ちょっと返答に困る。そこで昔の人はこれを「読み物」と言った。そして「その読み方にこそ上手下手はあれ」と言った。そう言われてみればそうかもしれない。しかし私に言わせれば琵琶は語り物ではなく歌い物でもなく、又読み物でもない。それよりもっと端的な「感じるもの、感じさせるもの」である。節回しも弾法も皆この「感じる」、「感じさせる」を生かすために存在しているのである。それが為に下手な譜付けや無節制な節回しでは感じないし、第一感じさせたりするにはまず自分で歌中の人物、又は事件に感じていなければならない。そして感じていれば無茶苦茶な譜付けや無責任な譜付けまたは節回しや弾法を盛りもののように並べたり、色とりどりの弾法はいかに図々しくなっても良心ある限り出来るものではない。結局無知なるが故にメチャメチャの弾奏をすることになる。

新しい一派
 こんな風だから一部分の人は、古い幼稚なる芸として(琵琶を)馬鹿にしている。しかし事実は決してそんな侮辱を受けるものではないのだ。常に無知を表白(※1)するような芸を聴かせるからそうした事も生じて来る。そしてその馬鹿にした人達は別に一派を作った。作った人達は琵琶は歌い物也、綺麗に歌へば良よい。なるたけ元気を無くして唯、管鳥(九官鳥)の鳴くような声だけ出してワーッともて囃されればよい。つまり興味万能で、その結果が人心に如何なる影響を及ぼしても構わない、また自分の芸が一時的流行であっても構わない。熊谷二郎直実がおしろいをつけて出ても、あえて意とするところに非ずとまで考えたかどうかは知らないが、とにかく勇敢に市井に進出した。

※1)表白(ひょうはく) 考えや気持ちを言葉や文に表して表現すること

正派の意見
 そこでいわゆる正派の人達のご意見はというと、「在来のを少しも崩さずにやる」と言っている。では在来のを完全に教わったか、また自分たちは在来のを崩さずにやっているかというとはなはだ疑問と言わざるを得ない点が多々ある。仮に完全なものであるとして「在来のを崩さず」の先がない。「在来のを崩さず、それを土台として進歩向上するか、すなわち在来のより以上のものに育て上げるか」と言えばそうではない、時勢も聴衆も、そんなことには頓着(※2)しない、ただ自分だけが自分に陶酔しているに過ぎない。そしてこれが本当の薩摩琵琶である、また俺が代表的名人であると陰で叫んで押し売り的にでも人前で歌いたい、それで陽には人前では歌わないという。

※2)頓着(とんちゃく) 心にかける、気にすること

新しい一派の考え方
 一流を作った人達は何でも新しい事をすれば進歩した、発達したと言って喜んでいるがその進歩も発達も、理想はいかなるものか、目標はどこにあるかは明らかでない、そして正派は古いと蔑している。

 正派の人達は一流を作った人達のことを「琵琶を毒する者」と憤慨し、盛んに罵倒しているが、私に言わせれば実に情けない事だと思う。お互いにそんなことを言い合っている場合ではないだろう。
 仮に流儀は違っても元々一つのものから出たんだし、お互いそれぞれの意見もあろうから、それほどに喧嘩するくらいならお互いもっと研究してレベルを高めてから堂々と芸の上で争ったらどんなものだろう。

新古の長短
第一新しいとか古いとか言って争っているのは滑稽だ、新しいものが必ず良ければセルロイド細工は象牙細工に勝るままだし、古いものが良ければ骨董品は貴重なものの筆頭だろう。国で言えばギリシャやエジプトなどは上等でチェコスロバキアなど第一等の国柄だがそうではない。要はその内容如何にあるし、また新しいとか古いとか言っているが、琵琶の真味が分かっているか否か大いに疑問だ。

 こんな事を考えているうちに台湾島の土賊は征服されて…… 否台湾島の土賊征服の報告書読み上げは済んで拍手が起こっている。

女流C夫人
 また場内がザワザワする間もなく「チェーーッ」と奇声が上がった、見るとC夫人が静々と琵琶を携えて登壇した。
 厚化粧に金縁眼鏡、しとやかな歩み、頭の丸髷が重そうだ。
「行く春や重たき琵琶の抱き心地」の古人の句を思い出す。
 曲目はと見ると「毒饅頭」である。
 女らしい歌として聴いてもらおうというー つまり「しとやか」という着物を被たのがありありと歌の上や、その態度に顕れている。「私は女ですから女らしくやりたいと思いまして、在来のやり方とは少し変えました」、とはかつてC夫人から直接聞いたことがあったので、私はある期待を持って今夜C夫人を聴いたが、結局は「落第」の二文字に尽きた。しかし考えてみると無理もない。

地理を知るべし
 いったい山登りの道を「この道は険しいから彼方の道にする」というのは地理を調べてからの事だ。地理を研究せずに道を更(か)えるのは盲動である。だから女らしくやるべく在来のものをと更えても一寸先は暗闇で、暗中模索では何にもならない。

相手は強いのを選べ
 お隣で「なかなか節回しが良い」と感心している中老人がいる。
 囲碁、将棋は指すのに相手が弱いと自分も弱くなる。弱くならないまでも上手にはなれない。
 低級なる、あるいは幼稚なる批評会に接したり、それと等しき聴衆に迎合すると上手にはなれない。私はC夫人を聴いてますますそう思った。

第一歩は暗記
 今度は「吉野落 初段 D」と張り出された。
「みよしのの」
とやる、次が「花も立田の紅葉も」とやるのだが、一足飛びに「紅葉も……」とやってから気が付いて「花も立田の」とやり直したが、さて歌い進めて行くほど盛んに忘れる。間違える、いや不用意の醜態を遺憾なく暴露した。これでは歌中の人物も何もあったものではない。
 (客性から)Xが時々文句を教えてやっていた。
第一Dは人よりも調子を高く高くと競うように見える。そして琵琶の音は音は単に良く鳴るというだけで、気品も妙味もない。その上に弾く手がすこぶる下手である。

反対物の効用
 また考える。
 井戸水は冬に温かく夏に冷たい。
 甘いものの後には辛いものが結構だ
 山を見て海を見る時は趣が変わって面白みがある。
 なにも人が調子を高くやるからととて自分も苦しい思いをして、調子を上げる必要はなかろう、しかしその苦しみを聴衆に分担させるに至っては残酷である。それに高い調子が良くて低い調子が悪いとは限らない。

苦しみの分担を聴衆に強いる
 それからまた考える
 見るなと言われれば見たくなる。いわんや見たいと思ってるときに見るなと言われればなおさら見たくなるのは人情だ。
 聞きたいと思っている時に弾奏者に静かにやられると自然聞く方でも聴きたい聴きたいの一心から静粛にならざるを得ない。それをばやたらにガアガア怒鳴る、グワングワン弾くとなるともう沢山だ。妙な反対の例を挙げるようだが、罪を悔いてる者に曲刑を課するのと同じで恨みこそ残れ決して好結果は得られない。

聴衆と弾奏者との不仲
 弾奏者の落ち着きは初めからない訳だ。弾奏者の落ち着きのない時、聴衆は(それを)馬鹿にする。馬鹿にされると弾奏者の方は焦りだす。こうなれば益々落ち着けない、益々落ち着かなければ益々馬鹿にされる。かくて弾奏者と聴衆の間はいよいよ離れて行く。

人間は困る
 Dはまた文句を忘れている、そしてまた間違えてやり直している。よくよく手数のかかる男だ。
 蓄音機の盤が古くなると同じところを何度も繰り返しているが実に不愉快だ。そしてしばらく進むとまた第二の不愉快が伴う、ガーッという点だ、騒々しくて少しも落ち着けない。しかし蓄音機だと盤を取り替えれば済むが、人間はそうはいかないから困る。願わくば盤の古くなった蓄音機のような琵琶は聴きたくないものだ。

上品な芸
 次に出たのは「王政復古 E」である。
 私は結構に拝聴した。みんなが一口に「E老人は下手だ」と言ってしまう。しかし私はE老人は下手だと言い去り得ない、なるほど上手ではないが、E老人の芸に対する心がけの良い事はその歌に表れている。その味は噛みしめるほど上品な味が出てくる。さすがに育ちの良い人は争えないものだ。

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