[最近琵琶発達史] 第四章 薩派ようやく陣容成る

薩派ようやく陣容成る
 事実東都に先駆をなしたものは薩派であった。そしてさしも全盛を極めたのであったが、徒に群雄割拠のていたらくで過ごしたためにはなはだ萎靡不振(※1)の状態に陥った。しかしこれは橘流や錦心流の出現によって圧縮されたのが主因であって近来ようやく復活しかけたのは純正なる薩摩琵琶のために慶すべきである。それは正絃会の発展と称して各頭目期せずして一致の行動を執ってきたからである。すなわち群雄割拠をやめて次第に握手して退勢を挽回すべく奮い立つに至った。

 私は正派唯一の機関誌である「無絃」に寄せた貴族院議員伯爵寺島誠一君の、
「元来薩摩琵琶は一言を以て之れを云えば、武士らしく男らしい点を最大なる特長とするのであって、歌詞、弾法共に此の特長を発揮するところに真価を誇り得るのである。もちろん時勢の進歩に伴って改良するの必要はあるが、その偉大なる特長をまで捨ててしまったのでは薩摩琵琶の死滅である。俗耳の馴れやすい錦心流が隆盛を極めるを見て、近時正派弾奏中に声や節のみに気苦労をして、肝心な特長を忘れようとする者があるのは甚だ遺憾である。人は往々にして枝葉の問題のためにかえって重大な使命、目的もしくは個性を没却破壊しがちで世の失敗者、落伍者中この矛盾に原因ある者が少なくない。いかなる職務に従事し、いかなる事業を企図(※2)する者も等しく心すべきである。この意味において池田天舟君は、近来稀に見る弾奏家たるを失わない人物と信じている。無論君の他にも真に巨匠として許すべき者があるに相違ないが、我が輩は昨春読売新聞社の主催する青年会館の大会に於いて、同君の一曲を聴いてこの感を深くしたのであった。
 かくて同君の如き弾奏家が、須田綱義、吉村岳城、四元義一、永江鶴嶺等の諸氏と主義を同じくして、正派普及のために努力していることは、正派のために喜ぶべきところである。我が輩は同君の健闘を切望してやまないのである。一指の交りを弾くも一挙に如かざるが如く、同主義者が手を執って進むことは斯道普及上の要諦(※3)であるが故に、小異を捨てて大同に就くの度量がなければならぬ。これは一国の政治に於いても同様である。しかし根本の見解を異にし、主張同じからざる者は到底行動を共に為し得ざるは明白であるから、仮に令従来行動を同じくしていたとしても袖を分かつより仕方あるまい。我が輩が望むところは、正派の特長をどこまでも維持し発揮することを信条として積極的進歩的活躍をしてもらいたいのである。すなわち此を以て軽薄淫華に堕せんとする世道人心に少なからぬ刺激を与えるものなりと信じるが故である」と言っている。

※1)萎靡不振(いびふしん) 活気が無く振るわない、元気がない様子
※2)企図(きと) 目的を立て、その実現を企てること
※3)要諦(ようてい) 物事の最も大切なところ、かなめ

薩摩琵琶正絃会その沿革
 この寺島君の池田君等に対する激励の辞は極めて婉曲ではあるが、此の間の消息を物語っているのである。翻って正絃会の沿革を叙する順序となった。なんといっても正絃会は現今正派の中心勢力であるからである。してその会報の如きは「無絃」と共に正派の権威ある耳目といって間違いないであろう、私は会報所載の沿革に依ることとした。
「本会の濫觴(※4)は、大正六年春、能勢鉄矢氏の上京を機とし、岡田尚徳氏の斡旋により大正三年九月以降池田政徳氏等が続け来れる。無絃会及び、須田綱義氏これに賛同し、我が薩摩琵琶の正派の普及発達を図るの議決して、ここに正絃会を組織し、大正六年六月二十四日、第一回の琵琶会を本郷追分西京寺に於いて開催せしに始まる。爾来この大綱を標榜してあまねく同志を科合し、春秋の二季にに於いて大会を市内に開催し、以て趣旨の貫徹を期し大いに諸策するところあり。すなわち(大正)六年十一月には南明倶楽部にて秋季大会を開催し、約七百の聴衆を納れて会の陣容を示し、同月会の規約の草稿略成りぬ。超えて七年四月の春期大会には会員九十、聴衆六百に及び、ようやく斯界に雄飛せんと機運を作すに至れり。すなわち此の会の終了後、毎月一回例会を開催するを以て彼の射利(※5)の為に非らずんば、売名の徒が独りよがりに禍せいられたる薩摩琵琶愛好者のために帰趨(※6)を示し、大網あまねく天下に布くの議成りぬ。六月には福本日南先生の顧問、西幸吉氏の会長代理決定して会の陣容ここに全く成れり。翌八年正月、島津長丸男の会長就任を見るに至れり。爾来年を閲する事三星霜回(三年)を重ねること実に三十余回、会の成長実に日進月歩も蕾ならずして、今や三百の同志を抱擁し、都下最も権威ある琵琶会として吾人(※7)共に相許すに至れり。その間役員の改選、会期の増補添削等尚多少の紆余曲折を免れずといえども、会の大網に到りては首尾一貫、時流に阿らず(※8)、衒矯(※9)に堕せず、よく純粋に薩摩琵琶の高風(※10)を守り、妙諦(※11)を伝え、斯界に範を示しつつあり」と。

※4)濫觴(らんしょう) ものの始まり、起源
※5)射利(しゃり) 手段を選ばず、安易に目的を得ようとすること
※6)帰趨(きすう) ゆきつくところ、結局
※7)吾人(ごじん) 一人称の自分、われわれ、われら
※8)阿らず(おもね-らず)他人に気に入られるよう媚びへつらわない
※9)衒矯(げんきょう) 見せかけ良くつくろうこと
※10)高風(こうふう) 優れた、立派な人格
※11)妙諦(みょうてい) すぐれた心理、真価、または真髄

 要するに須田綱義、能勢鉄矢、池田政徳君等が中堅である。名人伊集院鶴城君はいま青島に在るが一度は東都にあってその威風を振るった。そして寺島君の挙げた吉村岳城、四元義一、永江鶴嶺君等の諸大家は等しく純正なる薩摩琵琶の普及に努力している。正絃会に席こそ置いていないが吉村君は故木上君の高弟としてその遺鉢を伝えるべく城山会の名の下に鋭意し、四元君は明治三十一年故吉水錦翁を顧問に推して精志会を組織して以来、全く十年一日の如くベストを尽くしている。ただ永江君の近来、とかく健康勝れず思うに任せないのは遺憾である。四元君の令弟にして四元君を凌ぐと称せられる藤井義次君が昨年雲井会の組織を成して旺然、斯界に復活し来たるはすこぶる意を強くするに足るべく、活界における君塚篁陵、吉野弦月君の猛闘ぶりも特筆に値しよう。
 女流として薩摩琵琶のために大いに気を吐きつつあるは田辺錦波、小田改め岡部錦蝶、大照秀子の三女史であろう、とりわけ秀子女史は玉秀流を創起した傑物である。更に各流抱擁をもって径とし、温故知新をもって緯とする中派を樹立してその勢威を張っている薩摩絃風君は副宗家児島絃雨君をはじめ多くの秀才を網羅している。
 隠し芸である浪花節でさえも雲右衛門に似て、雲以上の品格ありという青雲流の創開者足立蘆光君は、玄海琵琶を以て鳴る山田紫絃君の弾奏を聞いて芸備地方に起こり、現に東都に勢力を進展し来た。

錦光流
 ここに書くのは順序でないが、永田錦心君に並ぶところのいわゆる東京派の頭目である錦光流の開祖牧野錦光君は、令弟にして師範代である牧野光双君をはじめとし萩原光松、佐藤光龍、松井光峰、東川光紅、水野光扇、酒井光翠、服部光葵、諸岡光渓、川田光城、松見光汀、木下光湖、花房光窓、新実光麗、三浦光鴎、平光凌、吉野光月、山下光苑君等十八名の錚々(※12)たる総伝者と、三百名内外の奥伝者をその門下に連ねて、まさに斯界の一方に覇をとなえているのである。(牧野)君は高崎五六男の紹介により同家の客たりし宮春岩次郎君について研究し、進んで吉水錦翁の門に入ったのは明治三十八年であって、その二葉会を起こしたのは翌三十九年である。永田錦心君が薩曲より換骨脱胎(※13)して一流を創始した如くに、君もまたその範を示した雄者である。更に新たなる陣容を整えてその機関誌を発行せんとすと聞いている。最近牧野子爵、髙野男爵、土屋子爵、松平子爵その他の地名の士により巨然たる後援会が組織されたことは如何に長足(※14)の発展を遂げたかを窺い知れるだろう。

 私はもっと書きたいのであるが遺憾ながら何ら記録の拠るべきものがないのと、その評伝とあまりに重複することを恐れてひとまず打ち切っておく。繰り返していうが、以上はもとより大体であるから各その評伝(琵琶人名録本文)と参照されたい、薩派がようやくその退勢を盛り返し来た事は想像に難くないであろう。

※12)錚錚(そうそう) 金属や楽器が響き渡るさま
※13)換骨脱胎(かんこつだったい) 換骨奪胎、先人の創意形式を取り入れながら、独自の工夫を加え新たなものに作り直すこと
※14)長足(ちょうそく) はやあし、進みが早いこと

第四章 薩派ようやく陣容成る おわり

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