[最近琵琶発達史] 第五章 演芸界に立脚した高峰琵琶

高峰琵琶
 私はここにその経路の異なった、そうしてかたくかたく演芸界に立脚(※1)している、言い換えれば演芸界独歩の高峰琵琶について叙述しよう。

 筑風高峰君は十七-八歳の頃より天台宗の僧侶の独専物と称せられた筑前琵琶を社会的芸術たらしめたいという広い抱負を持っていた。そして僧侶と伍(※2)するを好まず、また同視されるを望まずにいたが、明治三十九年にはいよいよ新派筑前琵琶と銘打って華々しく東京にて旗揚げした。実に天台宗の僧侶以外筑前人として琵琶を抱いて芸界に身を投じ、そうして東都に琵琶を普及したのは高峰君のほか、前には一人もいないのである。更に研究に改良に腐心して歌曲ともに新案の曲節を作り、尚また琵琶の形もまったく変えて大正元年の秋、有楽座に於いて発表した。すなわち世は大正に改まると同時に高峰琵琶は生まれ出でたのである。

※1)立脚(りっきゃく) 立ち場、よりどころを定めること
※2)伍する(ご-する) 同等に位置する、仲間に入ること

 十年前、すなわち明治三十九年頃より四十四-五年頃までの筑前琵琶は至って幼稚なものであったそうな、橘流の如きも三十八-九年頃までは本郷辺の寺院などで演奏会を開いていて橘友子、福田旭世、松本旭鶴の諸嬢が当時の幹部であったという。明治四十年の六月神田の青年会館で高峰君をはじめ吉田竹子、源千秋、中村誓、鈴木紫風君など僧侶外の人々が新派筑前大会の名の下に頭山満翁*より資金を仰ぎ、そして堂々と開演したのが東都に於ける筑前琵琶大会の嚆矢であって、当時より橘流は教授を専門に高峰君は広く芸界に立脚してもって今日二派に分かれ来たと言える。

*)頭山満[1855-1944]明治期から昭和初期にかけて活動したアジア主義者、玄洋社総帥
 
 要するに高峰君は琵琶界とはあまり汲みしていないようであるが、そのかわりに演芸界では非常に用いられているのである。詳しく言えば高峰君は自家広告をせずに世に芸を以て立つ以上は、いつもいつも己が琵琶村にいて村長や郡長気取りで一家一門の前ばかりで芸を普及するより進むべきは天下の演芸界であるとして教授は門下に任せ、あるいは劇場にあるいは寄席に、その他名人会や各演芸界に他芸と技を競いながら、あらゆる方面の舞台に立って琵琶趣味を鼓吹(※3)しつつあるところの具眼(※4)の士である。いわば演芸界に立脚地を求めて遂にこれに成功した随一人である。

※3)鼓吹(こすい) 励まし勇気づけること、鼓舞
※4)具眼(ぐがん) 物事の真意、真理を見抜く見識をもっていること

琵琶劇またその他興業
 高峰君は四-五年前琵琶劇を脚色して上京したがすこぶる専門家の歓迎するところとなった。それからまた彼の興業界の覇王である松竹合名社が、大正九年中の百五十日間を金壱萬円にて買収し、高峰君を他の座に出演させなかったことは特に高峰君の偉大さを証拠立てるものである。かくの如く、高峰琵琶の経路は橘流や錦心流とはまったく異なり、従って殊更に琵琶会というものを開かず月のうち十五日間は琵琶劇に出演している。故に一日に三千人の聴客あったとすれば十五日間に優に四万五千人の大衆に琵琶趣味を注入しているわけである。

 門下もまた教授や琵琶会は第二となし、活動(写真)、寄席、演芸会等によって身を立てているのであって自然琵琶界と親しまずに遠ざかっているのである。しかしながら斯道を江湖(※5)に紹介する上においてこの一派の貢献は真に特筆大書に値するのである。
  
※5)江湖(こうこ) 世間、世の中、一般社会

第五章 演芸界に立脚した高峰琵琶 おわり

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