[最近琵琶発達史] 第六章 錦心永田君と一水会(4)

 而してこれから先の記録の乏しいのには弱らされた。最近葛生君を訪ね「四弦」の主筆となった須田春園君(前から執筆していた)が、「大正何年史」として二-三年前から記録のいろいろを書いているくらいのもので、肝腎な大正十年間の記録が見当たらない。すなわち一水会創立当初の記録と昨年(十年)あたりの記録とを掲げて読者の判断に委ねる外はないのである。しかし前後をつなぎ合わせるのであるから一水会の発達状態をほぼ想察し得るであろう。

大正十年の記録
 以下大正十年の記録による、この年宗家幹事の改選があって田村滔水、山口春水、松田静水、福沢輝水、石崎佳水、佐藤筑水、布目糸水、吉田国水の八人が当選した。これは全国の錦心流水号者の投票によって東京在住の教師中より選ばれることになっているが、任期は一年としてあるらしい。

 六月、南明倶楽部に新曲講習会を開き、「児島高徳」「文覚」「流罪」の三曲*を披露した。また四弦社にて募集した新曲は五十余篇の多数に達し、しかも執筆者の多くは水号者で、水号者が新作に留意し来たことは喜ぶべき現象である。
 四弦社では毎号一篇ごと発表して奨励している一方、琵琶新聞でも盛んに新曲の懸賞募集をやっているが至極良い企てである。しかしさきに斯界に最も力こぶを入れつつある読売新聞社で人気投票をやり、斯界に新たなる刺激を与えたがこれらは四弦社や琵琶新聞社などが率先してその衝(※1)に任ずべきであろうと私は思う。つまり畑違いのものにその功を奪われた形である。
*編者註) 原文では二曲

※1)衝(しょう) 重要な点、要かなめ

 永田君はこの年五月を以て第五次の御前演奏の光栄に接し「雪晴れ」の一曲を演奏した。その際、侍従武官長はいたくその神技に感激し同月二十七日永田君を招いて巣鴨発兵院在院者に「雪晴れ」の一曲を聴かせた。榎本芝水、満園鷺水の二君も各演奏したそうである。この年永田君は静岡、江尻、豊橋、浜松、岡崎、新城、小田原、伊豆下田、前橋、足利、桐生、高崎、銚子、佐原、水戸、宇都宮、郡山、仙台、新庄、鶴岡、盛岡、青森、弘前、大舘、能代、横手、函館、小樽、札幌、室蘭、旭川、信州松代、篠井、甲府、塩山、新潟、金沢、名古屋、津、京都、大阪、神戸、松山等の四十二カ所に地方公演したという。その精力の絶倫さは真に驚くばかりである。近年永田君が地方の開拓に鋭意しつつあるのは斯流のために慶賀すべきである。同時に駸々(※2)乎として地方に発展しきる状況を逆睹(※3)するに難くないであろう。

※2)駸々(しんしん) 馬の早く歩むさま、月日がどんどん流れること
※3)逆睹(ぎゃくと) 結末を予め予測すること

 十年度に於いて特筆すべきは総伝三名の推薦で、松田静水、山口春水、福沢輝水の三君は五月一日を以て総伝の栄誉を担った。榎本芝水、田村滔水、石川萍水の三総伝と併せるとこれにて錦心流は六名の総伝を得ていよいよ基礎の確実を加えた。また同日に皆伝二十名が推薦された。これにて皆伝は九十名に及び、更に十二月には新皆伝五十余名予選されたと伝えられている。
 一方十年度の新水号は六百余名に達し、新教師は百二十名に上った。これにて水号は千八百名を超え就中一回の試験日に通過したは九月十八日で実に七十名という記録を作ったそうな。

 それにこれは本年のことであるが中沢静風(改め錦水)、秋本碧水、有坂秋水の三君が総伝の内通を得たという。もっとも有坂君は疑問であるが中沢、秋本の二君はその披露準備にかかったと既に本年三月号の琵琶新聞に出ている。してまた私の知人で早く奥伝を得た某は、「近頃錦心流では一カ年で水号を出すそうだ」と言って鼻の先で笑っていた。ある者は「早く三千人の水号を作って記念誌でも出すつもりであろう」と冷評した。でもいずれにしても多少慌ただしいように私は思われてならない。そして鼎(※4)の軽重(※5)を疑われはしないだろうかという懸念さえ起こさずにはいられないのである。

※4)鼎(かなえ、てい) 古代中国の器、転じて伝統
※5)軽重(けいちょう) 重さと軽さ転じて価値の度合い、真価

警視應令
 十年九月、警視應令で全市(全国)の貸席はすべて興業類似の演芸音曲会を禁止した。これが琵琶会にも大影響を与えたことは言うまでもない。すなわち従来随時に大会例会を開催したが新取締令では絶対に許可されず、許可される聴衆に制限を附けさせられることとなった。そのような取り締まりは十年前にもあったが今回のはその最も手厳しいものでただ十年度の特記事項であるばかりか殆ど空前の大打撃だと言われている。なんとか斯界一致して緩和策を講ぜずばならないだろう。

報酬額覚書ほか
 総伝者は六月一日より報酬額十五円となった。また皆伝の中六人提携して六人会を作り、これまた金十円と報酬額を発表し、七月一日より実行している。永田君は九月一日より金四十円以上と定めた。市外及び横浜が金五十円以上で地方は百二十円以上であるという。
 ほかに桜桃会でも女流の報酬を一定して発表した。十年度に新たに起こった連合組織の会は滔門会、桜桃会及び皆伝六人会等である。引き続き演奏を続けたのは二日会東会、錦江会その他で研究会での頭株は芝水会、滔水会、春水会等で幸水会もまた怠らず演奏会を催しきった。女流桜桃会は四月二十六日新橋の平民倶楽部に於いて発会式を揚げ以後毎月各所にて演奏会を開いている。

その他行事
 四弦社の事業として五月より地方行脚を試み、福島、新庄、酒田、鶴岡、仙台(二回)、名古屋、水戸、郡山、篠の井、松代、函館、小樽、札幌、旭川、室蘭、盛岡、青森、弘前、大舘、能代、横手、長岡の二十二カ所を視察しこれを誌上に発表して斯道宣伝の一端に資(※6)したなど思いつきである。尚、四弦社では率先して遊技部を作り年内にカルタ(二回)、写真競技(二回)、テニス、野球、大弓、囲碁、将棋各一回ずつ優勝戦を催した。また芝水会では観劇会、輝水会では遠足会を催し大いに親睦に勉めた。その他各会で運動競技の催しが盛んとなったそうである。

 以上が大正十年度に於ける一水会の記録の大要である、私はここまで書いていたく失望を感じた。なぜならば僅か一カ年間の記録としては内容沢山であり、かつ一水会設立以来年毎に発展に次ぐ発展を以てしたことはまさに首肯(※7)されるが、過去の記録もこの記録と大差なしとすればあまりに対内的ではなかろうか、革命児永田君の率いる一水会の記録として、はたまた斯界を独占する勢いにある錦心流の記録としてあまりに輪郭が小さすぎると私は思う。対外的施設若しくは試みといえるようなものが何一つ見当たらないではないか、私は永田君のために惜しむと同時に最後に永田君の所感を引用して論じてみよう。

※6)資する(し-する) 材料、元手にすること
※7)首肯(しゅこう) もっともと納得すること  

第六章 錦心永田君と一水会(4)一水会大正十年の記 おわり

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