[最近琵琶発達史] 第七章 永田君の所感を引いて(1)

危惧に瀕しつつある琵琶界
 永田君は本年六月号の琵琶新聞紙上に「危惧に瀕しつつある琵琶界」と題して警鐘を乱打している。私の思うところと符合する点もあり、また少し悲観に傾きすぎているところもあるが、ここに私の所感もかき混ぜて書いてみよう。それはやがて私の結論ともなるからである。ただし目下研究中であるからあまり突っ込んで述べられない。

 まず永田君は言う、「現在の琵琶界が繁栄を極めつつあるということは、すこぶる表面的な卑俗な現象であって、この際我々弾奏者が自分という者を深く見つめ、そうして真実なる芸術の完成ということを閑却(※1)し、徒に時流に迎合し、空理(※2)空名を追って得々としたような状態であったなら、おそらく琵琶の命脈は今後十年と続かないであろう、忌憚なく言えば、現在の琵琶界が滅亡の危機に瀕していることを、私は寒心(※3)せずにはいられれないのである」と。
 
 私はそうは信じたくない、否、差ほど危機に瀕しているとは思われないのである。ただ無茶苦茶に琵琶を弾き鳴らしたいわゆる勃興時代とは異なって、現在の琵琶界はかなり真剣になってきたと私は思う。すなわち永田君の言う「自分という者を深く見つめる」ようになってきたといえるのである。それは真の天才である永田君の眼から見れば。現在の琵琶界が繁栄を極めてることはすこぶる表面的な卑俗な現象であるかも知れないが、してまた以前に私が言ったように、なんとなく慌ただしい気分の斯界になっていることは争われない現象ではあるが、冷静に「真実なる芸術の完成という事」に心がけている者が、錦心流を学びつつある人々の間にもはなはだ少なくないのは事実であって、ただ永田君のような真の天才の「今のところ見当たらない」というに過ぎないのである。「徒(いたずら)に時流に迎合し」ということも、永田君が斯流を建設した当時は、やはりそういったような非難を浴びせかけられたではないか。今でいう純薩(薩摩正派)の一部では永田君を指して時流に阿附する利口者となしているではないか。私は徒に時流に迎合する者が絶無であるとは言わない。そして「空理空名を逐うて得々たるが如き状態であったならば」なるほど「恐らく琵琶の命脈は今後十年と続かないであろう」が、弾奏家のすべてが無自覚であってそうして妄動していない以上、すなわち少なくとも真剣味を帯びているのであるから「現在の琵琶界がまさに滅亡の危機に瀕している」とは断言出来ないのではないか。ただ警戒心の上にも警戒心を要するので、深く警(いま)しめなければならないことは錦心流に在って特に然りであると私は信ずるのである。

 「現在琵琶を聴く人々が比較的鑑賞眼の低い人々で、真に芸術を解し、琵琶の精神を愛好する人が極めて少ないのも事実であるが」と永田君は言っている。此の点はまったく事実であってはなはだ憂うべきである、私はそもそもその出発点を誤っていた事に帰すると思う。
 永田君が数回陛下の御前にて弾奏の光栄に浴しながら、その学ぶ者は最初から学生ではなく、それに近い青少年であり、その多くの上流若しくは中流に位置するところの智識階級に学ぶ者が少ないのは一代欠陥である。純薩全盛の余波を受けて範囲が限られているといえばそれまでであるが、筑前琵琶が女流の手によって着々として中流以上の家庭に浸透してゆくに対比して、私は痛切にその欠陥を指摘しないわけにはゆかないのである。此の点に関しては遺憾ながら家庭音楽を標榜して宣伝しつつある筑前琵琶に対して一籌を輸する(※4)ものと言わなければならない。芸術に於いては薩筑を通じての第一人者であるところの永田君のために私は苦言を呈ざるを得ないのであって、一国の中堅である智識階級に向かっての宣伝は、錦心流にとって最喫緊(※5)の問題となければならない。よろしく全力を挙げてこれに従うべきである。

※1)閑却(かんきゃく) なおざり、放って置き去りにすること
※2)空理(くうり) 現実とかけ離れて役に立たない理論や理屈
※3)寒心(かんしん) 不安の念でぞっとすること
※4)一籌を輸する(いっちゅうをゆする)一歩譲る、一等劣る
※5)喫緊(きっきん) 差し迫った

第七章 永田君の所感を引いて(1)危惧に瀕しつつある琵琶界 おわり

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