[最近琵琶発達史] 第八章 初代橘旭翁の苦心(3)

富士山頂の実験
 明治三十一年の夏、ある日金山尚志君の宅に招かれた旭翁は一曲の琵琶を弾じた。たまたま来客の一人が「総じて音律は富士山の頂上では調子が狂うのである。なんでも空気の密度によって麓で合わせた調子は上山に登るに従って段々狂いを生じると聞いている」と言いだした。旭翁は「決してその様なことがあるはずがない」と言う。いやある、いや無いといった具合でなかなか果てしない。その結果、論より証拠と富士登山の約束が成立して八月十八日に決行する事と相成った。

 同行の人は金山尚志、平田学、渡辺洪基、野中至の諸君に旭翁の五人。旭翁は大宮口で充分琵琶の調子を合わせて強力にも持たせず自ら背負って登った。また別に横笛を持って登った。一合目、二合目、三合目と登るに従って琵琶を弾じ、あるいは笛を吹き鳴らして音律の正否を試みた。かくて頂上の浅閒神社で「春日野」の曲を弾奏した。次いで剣ヶ峯の一角に座を占めて雲煙漂渺(※1)たる宇宙の大観を瞰下(※2)しながら再び弾ずる春日野の一曲も音は少しも変わらない。音色も声も至って透き通ったようであったが、空気の希薄なため音波は遠くまで達さず、また笛を吹くもこれまたひときわよく響くようであるが遠くに聞こえないいうことが確かめられた。

 この時携えていた琵琶の銘を「雲の上」と命じ、春日野の曲を「蓬莱山」と改めた。この富士登山が都下の各新聞に書き立てられたため「筑前琵琶」の名がいっぺんに広まった。ついには有栖川宮殿下がこれを聞かれて旭翁を召された。それは明治三十二年の二月二十一日、すなわち紀元節の佳日である。これにより御前演奏の端緒は開かれ続々としてお召しをこうむるに至ったが、それは暫時に謹記するとして、旭翁が富士山頂における弾奏は真に斯道の興廃この一挙にありであった。万一調子が狂ったならばどうであったろうか、ひとり旭翁の面目を踏み潰したでけではなく、橘流今日の隆盛を見ることが能わなかったかもしれない。虎穴に入らずんば虎児を得ず、奮然敢行した旭翁の勇気を偉とすべきである。同時に自己の技量を信じることの厚き意思の強固な旭翁の反面を覗い知れよう。

※1)縹渺(ひょうびょう) 広く果てしがないさま
※2)瞰下(かんか) 見下ろすこと

「かくて宮家方の筑前琵琶に対する趣味は日一日と伝播して二月十四、十五の両日には北白川宮の御前演奏の光栄に浴した、同年四月十一日には畏くも今上陛下が東宮にまします時、葉山の御用邸にお召しの光栄に浴した。この時御前には有栖川宮殿下、同妃殿下、中山二位局、櫂典侍柳原局、金子堅太郎子爵などが控え、楠公と湖水渡の二曲を弾奏した。東宮殿下(※3)にはすこぶるご満足の体で、金子子爵のご説明に種々とご下問があったそうである。金子子爵が琵琶の銘を「旭」と命じた由を言上したるに東宮殿下には「そはまことに善き名を選べり。我が日本を象徴するは日章旗である、旭というは目出度いものである」との仰せがあって大いに面目を施したが、それに引き替え金子子爵が睾丸を縮めたという一挿話がある。

智定(旭翁)の日常とお守り袋
 旭翁は平素からその風采や身なりには無頓着であった。だぶだぶの靴を履いて十八世紀のフロック(コート)を一着に帯び、飴色になったカラーを平気で付け、銀鎖の時計をフロックの襟からぶらりと下げて埃だらけの山高(帽子)を戴いたところはどうみても飛騨の山奥に住んでいる村長といった体である。和服にしてもそうだ、人間離れした高い桐の履き物(下駄?)に黒い妙な上衣を纏ってどこへでもてくてく出かけて行くという、少しも被服を飾らない人であった。がしかし日常の起居はすこぶる几帳面で、その風采とは全く別人の観があった。自分の手回り品などはすこぶる丁寧に始末をする人で、粗雑に取り扱ったり放るなど大嫌いであった。ことに琵琶などはいかなる場合、いかなる人にも決して手を触れさせず、自ら大事に取り扱っていた。

 こういう風であらかじめ旭翁は小袋のなかに調子笛やサワリ付けの小刀に琵琶糸などを入れ、それを琵琶の海老尾(※4)のところに括り付けておく癖があった。殿下の御前に出たとき、ついそれを取ることを忘れていた旭翁は澄ましたもので、ぶら下げたまま弾奏するので調子につれてその小袋がぶらぶらと動く。それをお目に止められた東宮殿下は「あれは何であるか?」と金子子爵に仰せられた。子爵もハッと思ったが「多分あれはお守り袋でありましょう」とお答えをして、脇の下から滝のような冷や汗を流した。旭翁もかくと聞いて一期の不覚にそれ以来袋を下げない事にしたと今の話に残っているが、旭翁の面目がいかにも目に浮いてくる様な話、細心にして豪放な性格の持ち主である偉人の風貌をおもんばかるばかりである。その守り袋云々の一件はまさに千慮の一失(※5)である。

 私は繰り返して言う、細心にして豪放たる性格を有する偉人であった。そうしてそれが為に筑前琵琶百年の基を開いたのである。

※3)東宮殿下(とうぐうでんか) 皇太子、この時は嘉仁親王、のちの大正天皇
※4)海老尾(えびお) 琵琶の最上部、糸巻きの後部にある丸く反った部分
※5)千慮一失(せんりょいっしつ) 数多ある偉業のただ一つの残念なことがら

第八章 初代橘旭翁の苦心(3)富士山頂の実験とお守り袋 おわり

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