[最近琵琶発達史] 第八章 初代橘旭翁の苦心(5)

天覧の栄誉
 超えて十三日またまた北白川宮殿下の御召しを蒙り、六月十八日には麻布御川邸に参殿し富美宮、泰宮両内親王の御前に小督、楠公、扇の的等を弾奏し、二十一日に再び北白川宮殿下御お召しにより石童丸、湖水渡、扇の的等を演奏した。明治四十年五月六日には高輪の御用邸に参内して常宮、周宮両内親王の御前に経正、石童丸、湖水渡を弾奏し、翌四十一年一月二十一日には小田原御用邸に再び両内親王の御召しを戴き伏見の吹雪、四條綴、義士の本懐、師長等を演奏し、四月二日三度御召しを蒙り粟津原、錦の御旗、蓬莱山、大塔宮等数曲を演奏した。

 明治四十四年十一月十一月九日、十六日の両日は旭翁多年の累積の宿願が届いて「今日以後琵琶を廃するも遺憾なし」と感激せしめた日である。昭憲皇太后御前演奏の栄誉と共に永く記念すべき橘家空前の光栄に良くした日で、すなわち明治天皇の御前演奏に召され天顔に咫尺(※1)し奉りて琵琶を弾奏したる旭翁一代の晴れの日である。当時明治天皇は肥筑(※2)の平野に三軍の武をし給うべく行幸の御途中、山口県防府町多々羅山毛利公邸へ御駐輦(※3)遊ばされた時に旭翁と薩摩琵琶の名手西幸吉の両師に御前弾奏の大命が下った。

 旭翁は斎戒沐浴して侯爵邸に参殿した。桂公、毛利公、岡侍医頭、杉子爵、山崎書記官などが控えているその時、義士本懐、湖水渡を五絃で弾奏した。陛下は杉子爵に向かわせ給い、「彼の琵琶は何という琵琶であるか」との御下問があった。子爵は「旭翁が工夫せし五絃琵琶」の旨を奉答したということである。陛下はよほど旭翁の筑前琵琶に御観興を催したと見え、旭翁はそのまま滞在して御還幸を待つこととなった。その日が十六日で、再び毛利公邸に御召しを蒙って、小楠公と他に二曲を弾奏し、無上の面目を施した。

※1)咫尺(しせき) 貴人の面前に近く拝謁すること
※2)肥筑(ひちく) 九州の旧地名、筑前・筑後・肥前・肥後の総称
※3)駐輦(ちゅうれん) 天子が行幸の列を止めること

新版図
 ところでこれだけでは肝腎な女流弾奏家の手によって、中流以上の家庭に浸透してゆくに至ったその経路が全然判らない。この点に関しては国民子の観察を引用するよりほかはないのである。

 国民子は言う「さて、東京市内で流派の如何にかかわらず先生と我ら共に許しを得て免状を持ち、かつ長何尺か、巾何寸かの板に”琵琶教授”の大看板を出している者は数百名、全国に累算して約三千名からある。その他教師の格に入らぬ者、あるいは弟子を合算すると一万余人にも達する。ここに面白いことは筑前琵琶を愛好する者が支那朝鮮の領土に非常に多い事である。リファインされないあのおおざっぱな音曲が芸術を持たぬ新天地*に歓迎されるであろう。この一万余人の各派琵琶の全体を通じ、約七千人は女流である。そしてその九分通りは旭翁の開拓した橘流を以て組織されている旭会会員である。そもそも旭会とは……」と筆を改めて説く
*訳者注)原文は植民地

 橘旭翁は自分が創設した橘流宗家の女流後継者として、彼の長女旭桜こと友子及び姪の旭恵こと利恵子の両名を見いだした。彼の梨園界(※4*)の故市川団十郎は今の板東彦三郎を見て、裏店のお内儀が鮪の荒身を買うように見どころがあると推称の弁を惜しまなかったが、今に至るまで光った芸の所有者とはならないこれに比べて、旭翁が旭桜、旭恵両女史を見いだした事は団十郎以上の賢明さであった。
 旭桜は今から十九年前、旭恵と相前後して上京、麹町一番町に父旭翁と同棲して実兄である現二代目旭翁の傍ら益々芸の研鑽を積んでいるうち、昨年(大正九年)、実父旭翁と死に別れ、同区五番町一番地に家を構え独立独身で今日に及び宗家の二代目を助けている」

※4)梨園(りえん) ここでは歌舞伎界の名門
*編者註) 九代目市川団十郎[1838–1903]が、板東英造[1886-1938]を贔屓して六代目尾上榮三郎、六代目板東彦三郎と推し上げた故事のことと思われるが詳細は不明

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