[最近琵琶発達史] 第八章 初代橘旭翁の苦心(6)

筑前琵琶女流の世界
 また旭恵嬢は旭会の中堅を承り、南明倶楽部や和強楽堂あたりで弾奏会を催していた、琵琶会を有楽座あたりで開催するようにしたのは旭恵嬢の力であると言って良い。

 してまた「筑前の博多の芸妓であった金時こと吉田竹子が旭翁の門下に馳せ参じたのがそもそも女琵琶師の最初である。これは明治三十一年の事であった。旭翁は彼女の芸を見て「これは女に適したものだ」と悟り自分の娘、友子こと旭桜及び姪の利恵子こと旭恵に手ほどきした。これにおいて前者は玄人筋の女流の元祖、後者は素人筋の元祖で黒焼屋宣敷元祖が二つ出来上がったが、吉田竹子は吉田流というを編み出して一派を立てた」と。そして「私はやはり吉田竹子を女流琵琶師の開祖なり先人なりと認める」と。

 しかし琵琶一万余人と数字を挙げたのは杜撰(ずさん)を免れない。今や錦心流の水号二千数百人といわれ、橘流の雅号のみにても約七千人と称せられているではないか。しかもそれはことごとく女流ばかりではない。私は永田錦心君に対しても苦言を呈しておいたが、斯界の人々が名ある記者とあまりに疎隔(※1)している事実を認めないわけにはいかない。記者が斯界に対して無関心なのか、それとも斯界の重なる人々が利用するのを忘れているのか、いずれにしても今の時代、新聞雑誌を利用しようとしないのは良い策とは言えない。機関誌のごときは対内的であるとしばしば言った。数種に余る都下一流どころの新聞に琵琶界の批評一つ出ていないことも既に述べた。さすがの旭翁すらここに思いを致さなかったのは返す返すも残念である。

※1)疎隔(そかく) 距離を置き、隔たりがあること

 さて、叙述は思わずも岐路に入ったが、国民子の言ったとおり、(筑前琵琶が)女子に最適の音楽であるということを悟り、まず自分の血族に施し、これを後継者とした旭翁の頭の働きには寸分の隙間もなかったと言えよう。それに旭翁がその天の才を認めて上京を促したという琵琶第一の人気を背負った豊田旭穣嬢の出現は、如何に斯界に強い刺激を与えた事であろう、国民子は「薩摩琵琶の錦心と人気を争いつつある」とまで激賞している。
 上京前既に九州一円を風靡した旭恵嬢と共に、この二人が全国幾千の女性の渇仰(※2)の中心となり、またなりつつあるあるかは疑う余地がない。そうして筑前琵琶が女流弾奏家の手によって中流以上の家庭に旺然と浸透して行く勢いを馴致(※3)した旭翁の賢明さを私(筆者)はいよいよ称えずにはいられないのである。

 その他に国民子は、玉秀流を創始した「旭穣に比肩する斯界女流の人気随一であろう」という佐藤秀子嬢や、旭穣嬢に次ぐところの吉田旭華女史の高弟である江馬旭子嬢や、今林旭葉嬢などを挙げているが、根がロマンスのこととて明治三十五年、早くも旭翁の門下となってその蘊奥(※4)を極めた江戸っ子のチャキチャキ、松本旭鶴嬢などには一言も触れていない。

※2)渇仰(かつぎょう) 仏教用語、砂に水が染みこむように心から慕うこと
※3)馴致(じゅんち) 慣れさせ、そうなるように仕向けること
※4)蘊奥(うんおう) 学問・芸能の最も深いところ、奥義、極意

第八章 初代橘旭翁の苦心(6)筑前琵琶女流の世界 おわり

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