[最近琵琶発達史] 第九章 旭会の制定並びに現勢(1)

大日本旭会制定
 翻って大日本旭会の制定、すなわち旭翁の苦心を具体化した当時の模様を略記しよう。

 その大日本旭会は明治四十四年五月二十一日、大阪梅田金龍館で創立した。
 当時創立委員として九州を代表して林為次郎(現福岡旭会会長)、原田善右(旭水)、髙野観道(髙野旭嵐父)、秋根昌雄(秋根旭恵夫)。同教師側を代表して安部栄蔵(旭洲)、一丸忍正(旭松)、江崎武雄(旭来)、石村卯三郎(旭光)、東京を代表して橘一定(現代宗家旭翁)、竹石行正(現大阪旭会長喜多身行正にして旭嶺と号す)、大沢明(旭涛)、但木文泰(のち竹下と改め旭龍と号す)。同教師側を代表して富永初太郎(旭昇)、大阪を代表して奥野義朗、藤井護三郎、桜木勇吉、大北準一郎(現関西旭会長)。同教師側を代表して安田伴作(故旭洋)、宝来保之助(旭蓮亡夫)、大橋知(現関西旭会幹事)の諸君であった。これらの人々が先代旭翁を中心として審議の結果出来上がったのが大日本旭会である。

 してまたこの時大阪旭会は、五月二十一日、二十二日の二日間、土佐掘青年会館で演奏会を開いた。会費は三十銭?で以下の演奏順序であった。田中白洋、辻野旭煌、鈴木旭秋、水野旭浪、宮崎旭城、但木旭龍(東京)、早間旭紅、水也田旭嶺、富永旭昇、安倍旭洲(筑前)、先代橘旭翁、安田旭洋、永井旭泉の諸君で、第二日には以上の人々の他に花田旭游、山崎旭東。前崎旭堂、櫛谷旭岬の諸君が出演した。今日(大正11年現在)から見れば実に隔世の感がある。

 ここで私(筆者)は読者の誤解を招かぬよう続けて述べなければならない。それは前項に「筑前琵琶が女流弾奏家の手によって中流以上の家庭に浸透していく」と書いた。しかしその指導の任にあたる幹部はやはり多くが男性弾奏家である。東京では現に大日本旭会の制定に参画した富永君や三好旭天、島田旭耕、鹿毛旭刀、筑紫旭一臣の諸君が重なる役目を果たしている。大阪では大橋旭寿、中村翠湖の両女史と達邑玉蘭夫人の三人が草分けではあるが、研究会を牛耳った故安田旭洋君、同好会の頭目というべき故柴田旭晃君、水也田流を編み出した水也田呑洲君や錦会を組織した宮崎旭城改め錦城君や山崎旭正、花田旭游、辻野旭煌の三羽カラスが雄飛している。

 更に筑前琵琶の発祥地である福岡では(たとえ日高旭鶴女史や一丸旭菊、髙野旭嵐嬢等があるにせよ)一丸旭松、石村旭光君等の元老株が控えているではないか。その他名古屋における安部旭洲君、神戸の柴田旭堂君をはじめ数えるのも容易ではない。特に石村、安部、一丸の三君は斯界における最高のシンボルとして「橘姓」を許され、また安田君も「橘姓」を得ている。

高雅な音楽
 ひとり幹部ばかりでなく、斯道の研究者に全く男女の区別はないが、ただ国民子の言ったように「女が弄ぶがため」に世間の好奇心を煽ってひとつの前進を促したことは否定できない事実であるし、近来はすべての人々が(筑前琵琶を)真面目に研究しだしたということもある。筑前琵琶が社会的に地歩(※1)を占めたのは、従来の琴三味線等の遊芸よりも高雅(※2)な音楽であるということが広く知れ渡り、中流以上の子女でこれを稽古する者が非常に多くなったという事も指摘しておきたい。

※1)地歩(ちほ) 人などの立場や地位、立ち位置
※2)高雅(こうが) 気高く雅びやかなこと

傷病者慰問
 尚、日露の戦端開くや世はことごとく戦争に酔い、内地ではやれ慰問の後援のと大騒ぎした当時、あるいは傷つき、あるいは病になった無数の傷病兵を内外の病院に慰問するにあたり、筑前琵琶が確固の音楽であるというので非常にもて囃された。そうして旭翁門下の闘将は実に良くこの好機を外さず活躍した。これは筑前琵琶を紹介する上で特筆すべきものであるとともに、斯道の発達は日露戦争に享(※3)するところが少なくなかったのである。

※3)享(きょう) 有り難く受け取ること

第九章 旭会の制定並びに現勢(1)大日本旭会の制定 おわり

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