[琵琶読本] 明治大帝と薩摩琵琶

わが国の薩摩琵琶界に於いて最初の御前弾奏者
 申し上げるも畏きことながら
 明治大帝には、薩摩琵琶に深くご趣味を御持ち遊ばされた。私は今そのことを謹んで申し述べたいと思う。
頃は明治十五年五月九日
明治大帝には市外荏群(※現在は品川区周辺)袖ヶ崎の島津忠久公邸へつつじをご覧の為御臨幸遊ばされた。
或いは深紅に、或いは純白に、叉は紫、樺ととりどり咲ける花つつじは初夏の日差しに一層の美観を呈し龍顔ことさらに麗しく拝せられたのは申すまでもないが、その時にいろいろと郷士名物の催しものをしてお輿しを添え奉った中に、薩摩琵琶が特に御感に入った。
 その時の御前弾奏の光栄に浴した弾奏者は西幸吉、吉水經和(号錦水)の両氏であった。これが薩摩琵琶で   陛下の御前弾奏の光栄に浴した最初の人である。

 序ながら、西幸吉氏は「私のやるのが本当の薩摩琵琶だ」と云われたので段々突っ込んで質したところが「薩摩では琵琶で通っている、決して薩摩琵琶とはいわない、それを東京で薩摩という冠を付けて名乗ったのは私である。だから薩摩琵琶は私が元祖である」といわれた。然し世間ではそんな理屈は知らない、ただ薩摩の国だけで行われた琵琶なるが為に薩摩琵琶と称して通っている右参考のためにちょっと申し添えておく。
 薩摩琵琶が畏くも   陛下の御意に召したことは、当主忠久公も非常に感激してこの上は、斯道の真の名人を鹿児島から召し寄せて、重ねて   天聴に達し奉ろうというので、そのことを申し上げると、直に御聴許になった。そこで選抜されたのが、須田傳吉、田中治右衛門の両氏であった。
 中にも須田傳吉氏には、当時の執奏者たりし島津忠義公より「これを以て演奏せよ」と自作の琵琶を興へられた。
 須田傳吉氏は槍術の達人で、背のあまり高くなく横幅のある頑健鉄の如き人であった、田中治右衛門は、背のスラリとしたどっちかといえば痩せ形の人で、そして八田知紀の門人で、和歌の道に長じた人で、両人互に異なった特徴の持ち主であった。随て一方は剛健そのものといった風な弾法だし、一方は温厚玉の如き芸風であった。
 右の両人が、赤坂御所の萩のお茶屋に於いて御前弾奏の御命を拝したが、流石に真の名人であっただけに、ことのほか御感に入ったと洩れ承った。そして、田中治右衛門の琵琶の名が「秋月」というのであったのを聞こめしされ、忝くも

   よつの緒の琴の調は秋の夜の
        月の光に澄まさりつつ

 という御製をすら賜わった。
 それから後、かの伏見の寺田屋騒動で有名な豪傑奈良原繁氏が、また鹿児島から検見崎市助、宮原政右衛門(鹿児島の方言と思うがミヤハルと云っていた。その為か後にこの人の弟でやはり琵琶の上手だった宮春岩次郎という人が東京にいた)の両人を召し連れて上京、   天聴に達したが、これまた大層御賞美の御言葉を賜ったそうである。
 この検見崎市助は元来無学の人で、御前演奏の砌に梅が枝を弾奏したが「井出の山吹藤咲きて」とあるのを「井出の山ふくふくさきて」と歌い、また蓬莱山では「天長地久と云々」を「てんちょちょさよう」と歌ったので、   陛下は御側に侍った高崎正風氏に、御微笑を湛えさせて、今の言葉は何であるかと御下問になったそうだ、まことに畏れ多い話であるが、未だに当時の人たちの間で一笑い話として愛嬌を残している。
 その後は、住所的関係や、御歌所高崎正風との関係から西幸吉氏が一番多く御前弾奏の光栄に浴している。
 序ながらちょっと申し上げておくが、西幸吉氏は高崎正風氏に随分辛辣なる指導を受けて、発音を叱正された。その苦心は並大抵のものではなかった。そして尚、謡の風を加味した一種独特の芸であった。弾法は甚だリズミカルなもので、ちょっと踊り出しそうなものであったが流石に品の悪い、俗臭粉々たる点はなかった。
 今ここに御前弾奏の光栄に浴した人達を列記すると

明治天皇御前弾奏者
   西幸吉   十五回
   吉水經和   一回
   宮原政右衛門 一回
   検見崎市助  二回
   須田傳吉   二回
   田中治右衛門 二回
   別府真彦   二回
   四元義一   一回

の諸氏である。なお
大正天皇御前弾奏の光栄に浴した人達を列記すると
   西幸吉  回数不詳
   永田錦心   二回
   四元義一   二回

また、   大正天皇がまだ東宮に在らせられた時代に   明治天皇の御命を拝して西幸吉氏が毎月三四回ずつ葉山の御別邸に罷り出で御弾奏申し上げたと嘗て西幸吉氏が私に直接話されたことがあった。
 その他各  皇族方の御前で弾奏された人は随分沢山ある。不肖岳城もそれらの人々の末席を汚しているが、他日の機会に詳しく発表させていただくとして、ここに一つ挿話を述べよう。

 今は故人になったが、藤波言忠侍従が   明治大帝から、薩摩琵琶を覚えて参れと御諚を拝したので直に御受け申し上げて、藤波侍従は西幸吉に教えを受けることになった。然るに同侍従は生来不器用であったのか、それとも他に理由があったのか、一向上達どころか、テンで形すら出来ない。然し   大帝からは、藤波まだ薩摩琵琶は出来ぬかと御催促、侍従は御答え申し上げるすべもなく、恭しく冷や汗ばかりかき奉っていたが   大帝が御忘れ遊ばしたのか、侍従がすっかり降参して終ったのか、その辺は窺い知る事が出来ないが、遂にそのままになってしまったそうである。

 また、
明治大帝には、西幸吉に対して
「薩摩琵琶を盛に普及して、我が国民精神の振興に盡(※1)せよ」との、いとも有り難き御優諚を拝している。これは独り西幸吉氏の光栄ではなく、我が薩摩琵琶界の光栄であり、その御優諚に対し奉り、我々臣下は益々意を固くして、真の日本の芸術家の態度を以て、聖意に答えなければならない。
 畏れ多いことながら、   明治大帝が、薩摩琵琶を聞召しされ、かかる御優諚を賜ったのは、薩摩琵琶は、民心作興に力ある興国的音楽であると御認定遊ばされたが為であると恐れながら拝察される。もし亡国的のものであれば、かかるご沙汰は下らないのは明らかである。
 その後の琵琶は、その当時のものと比較すれば甚だしき変化である。そしてそれが、亡国的であるか、興国的であるか、識者は一度聴けば直に断定し得るであろう。但し、文部省(現文部科学省)では分からない。文部省では歌詞検閲は出来ても芸風の検閲をするだけの人はいないし、また居ても何の権威も示し得ない。
※1) 盡(じん) ことごとく仕つくすこと。

 最後に
明治大帝が、薩摩琵琶を御好き遊ばされたことを述べて、この項を終わりたいと思う。
 石山基陽氏の御話によれば
「薩摩琵琶は殊に御意に召して、西幸吉氏などは数度天聴に達し、斜ならず御悦び遊ばされた」と云って居られたし
 高倉壽子氏も
「明治大帝の御好き遊ばされたのは薩摩琵琶で、よく   大帝御自身で御謡い遊ばされたが、それは各所に御臨幸の節、聞こえ上げたのを御記憶遊ばされ、また、蓄音機によって御練習遊ばされたのである」と話された。
 吉田鈺子氏も   大帝の薩摩琵琶がお好きであらせられた事や、西幸吉氏の御前弾奏されたことを話された。また同氏に   大帝が「琵琶を作れ」とご下命があったので、素人細工ながら一生懸命に作って差し上げた処御感に入り、それをば更に   御躬ら御加工遊ばして、  皇后陛下の御歌「金剛石」など御弾奏遊ばされたと謹話された。
 また、御歌所に御命じになって、錦の御旗、小督、小松操初段、同二段、同三段、日本武尊東征、等を御作らせになり、錦の御旗などは、歌詞に難のある点を御指摘御叱正遊ばれたと拝承している

      ○

後小松天皇
それ天下の主としては、民と共に楽しみ、民と共に苦しみ、神明の誠を味方とし、奇翫を敵とする時は、国に悲しみの民なく、国に遊客の諸侯なし。踐しさがうちにも心を寄せ、賢を用い、貴きが中にも邪なるを舎つる時は天地と久しかるべし。

      ○

主聖に、臣賢なれば天下盛なり。君命に、臣直なれば国の福なり。(史記)

※ 天皇陛下、また皇族御名を書き表す際、上に文字を置くのは不敬とされるので行先頭以外は余白を設ける。

琵琶読本 目次へ

Posted in 琵琶読本

コメントは受け付けていません。