作詞家 田中濤外

琵琶歌は元々和歌など古典に原典を求めたものを除いて凡そ作詞者は自身が琵琶弾奏家、愛好家であるなかで、田中濤外氏[1880-1958]はほぼ唯一、スカウト?で斯界に現れた人物です。

京都嵯峨野にて石川冨士雄、田中濤外と錦穣 (昭和31年)

漢学者であり、従軍記者を務めた経験もある氏。その起こりは昭和5年、錦心流を追放された水藤枝水、水藤錦穣親子が転居した初音町(現台東区谷中)の借家に家賃を集める差配として田中氏が出入りすることから始まります。

あるとき琵琶の話題になり、話せば歴史や古典に造詣浅からぬ様子。枝水氏の「それなら琵琶歌も書けるだろう」との発案から水藤家での作詞作業に入りました。静かに二三合の酒と肴で詞を書き上げる濤外氏。初の作は楚の「項羽」だったそうです。しかしそれは難解過ぎるためお蔵入り、次々親子の要望も取り入れつ作られた十数曲の中に後の名曲となる「曲垣平九郞」や「扇の的」がありました。作るそばから錦穣が試奏し、枝水の意見も取り入れながらの共同作業。簡潔にしてスピード感溢れる氏の作詞はやがて枝水氏の手によって各流派にも広く紹介されるに至りました。

昭和10年には初の歌詞集「琵琶新曲 菊水忠義の旗風」を上梓しますが、それをピークに琵琶界から離れ、縁者を頼り京都に移り住みます。

濤外氏が錦穣の前に最後に現れたのは昭和31年、京都嵯峨野で行われた料亭での琵琶会。師錦穣を訪ねて突然「田中です」と名のる老人を藤波が玄関で承り、それを先生に伝えると錦穣先生は転びそうなほどに慌てて濤外氏を迎えに行き、自分が座っていた火鉢のそばに氏を座らせ長年に渡る感謝を伝え労ったそうです。(写真はその時のもの)
昭和33年10月、京都下鴨の田中邸にて没、享年78歳

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