薩摩琵琶の歴史の梗概 薩摩琵琶生まる

薩摩琵琶生まる
 当時、伊作郷に、門脇寿長院という琵琶法師がいた。彼は盲人であったが非常に頭の良い、かつ真面目な男であった。如何に頭が良くっても不真面目では害になる。頭の良い者はとかく狡猾なものだが、寿長院はそうではなかったし、かつ相当修行を積んだ男であった。これを日新斎は見いだして重用した。
 こういってしまえば何でもないが、人を見いだすということはよほどの賢君でなければ出来る事ではないし、また更にこれを重用するに至ってはよほど腹の出来た人でないと実行できるものではない。
 日新斎は寿長院を政治や軍事方面の枢機に参晝(※1)せしめた。
 当時の状態からすれば、政治はもちろんだが軍事は絶対に忽せ(※2)にできない。その重要なる枢機に参晝せしめたのだからたいした英断だと思う。今その一例を挙げると、陣中の祈祷は勿論のこと、彼を軍事探偵として領外へ進出せしめた。そこで寿長院は盲目の不自由さも苦とせず所々を徘徊し、治国安民、五穀成就祈願の経に和して琵琶を弾きながら家々を訪問して敵地の様子を探って歩いた。のみならず軍略上の諮聞にも興っている。その記録の一節に

天文元辰之春、忠良公南郷の城に恩懸りの時分、盲僧十三代門淵壽長院を御前へ被召出、右御發向何頃可 然候哉承り合ひ言上可 致由御意にて寿長院南郷の城へ差越し 、彼地方々徘徊仕り罷在候処、三月二十九日所中不残狩相催し有之由承傳候、この序に可然由言上仕り、その日限に取掛り被遊、南郷の城容易く敗北致し御味方御勝利の由に候、此等初めに於て壽長院に問合わせ、並に祈祷等仰付けられ、その後城餘多首尾よく手に入れられ申候由に候云々とある。

 この寿長院は琵琶の方の腕前は実に立派なものであった。
 日新斎は琵琶の音の気品に気がついていたので、寿長院を助手として、在来の琵琶からヒントを得て新しい琵琶を作った。これが薩摩琵琶の初めである。

※1)参晝(さんしょ)
※2)忽せ(ゆるがせ) ものごとをいい加減にするさま、なおざり

創作に対する意見
 ここでちょっと申し上げたいのは、近頃いろいろと新しい芸が出来るが、私の見聞の狭い為だろうが感心するようなものは一つも無い。しかしそれが当然なんだ。彼らは何を目的で新しい芸術を作るかといえば、低級な功名心を満足させるためか、自惚れの表現か、さもなくば大向こうの喝采を目標として迎合妥協で一儲けが望みなんだ。既にその心が下劣である。だから気の利いたものが出来るわけがない。だがこれら低級または幼稚なものでも、目先の新しいものならば提灯侍をしてくれるオセッカイ屋がある。それは実に下っ端の新聞記者や、鼻薬で動く低級雑誌記者と妥協批評家である。世の中は目あき千人目くら千人というが、事実は目あき千人にして、目くら一万人以上あるだろう。その目くらの目を開かせず一層下へと落とすような事をして、日本人本来の持前たる審美力を低下せしめている。
 古人は一つの芸を作る迄にはかなり自分という者を鍛えている。先ず十分に自己を修養して後に山に入るとか、またそれに等しい俗塵を避けた生活をして大自然を相手に工夫三昧に入る。そして一つの芸術を創作する。その芸を以て臨むところ必ず衆生を済度(※3しゅじょう-さいど)する。
 日新斎にした処が、前述の如く幼時より一生懸命に修養して、そして死ぬまで禅寺通いをし続けた人である。しかもその人格も手腕も前述の通りだからご想像に難くはあるまいと思う。そこへ助手が寿長院だから申し分はない。

※3)衆生済度(しゅじょうさいど) 仏教用語。人々を迷いの苦しみから救って、悟りの世界に渡し導くこと

楽器の改造
 当時、地神盲僧の使用した琵琶の柱は六つあって、押干と称する柱と柱の間を押さえ込んで音階を作ることはしなかったし、撥も三味線の如き薄いものであったがこれでは強い音が出ない。弱い音では士気を振興するにはふさわしくない。それから音階も少ない。音階が少なければ変化に乏しい。変化が乏しければ面白くない。というので柱を二つ減らして現在使用しているようなものにした。撥が大きくなった為に音も強くなった。単に大きくなったと云っただけではたいした事もないが、在来のものと比較したらば、その着想の大胆なるに驚くだろう。更にもう一つ、この撥の大なるは単に音を強くする為のみではなく、いざという場合護身用の一種の武器たらしめたのである。如何に戦闘武士の思案とは云え、その用意の周到なるには感心する。
 これまでにしたが、まだ書けないのは琵琶の材料と構造であった。
 当時の琵琶は、シオヂ、栗などの材料で出来ていた。稀には欅もあった。これでは本質的に強い音も出ないし、また古武士の好む気品のある、ゆかしい音も出ないので種々研究の結果、桑または桜が良材なることを発見した。それから在来の琵琶は、腹板を三昧に、はいだのを一枚板にし、中渡しと称して胴に橋をかけてあって、それと腹板とを膠着させてなかったのを膠着させ、覆手の下に柱を立て、隠月を小さくすることもした。この覆手の下に柱を立てることは確かに大きな創見である。
 それから音階を作る方の柱には朴(ほう)を用いたが、これは実に結構なことである。朴はご案内の通り摩擦に抵抗力があるから押干の為に柱が摩滅するのをある程度まで緩和できるし、また湿気を他の木ほどに受けない。余談だが刀の鞘に朴を用いるのも湿気を防ぐからである。
 形は王朝時代の形を残して輪郭の線を柔らかくし、轉軫(※4てんじん)で締めを付けたしかし後世大工に作らせたり、職人が作ったりしているうちに、統一観念の無い彼らは部分的にのみ見て遂に形が崩れてきた。そのうえ金時琵琶屋という商人が出来てから甚だ便利にはなったが、その反面に装飾や奢侈な工安をするようになり、しかもそれらはみな統一的に見て工夫せず、単なる部分的なものであるために全く品のない、形の上からは芸術的にはなんら権威なきものにすらなった。

※4)轉軫(てんじん) 琵琶の部分、天神

日新斎作歌
 まずこれで楽器の方はできたので日新斎は作歌にとりかかった。それは現在でも本筋の琵琶専門家はみな知っているが、かの武蔵野、花の香、迷悟もどき、である。この武蔵野は青年の為に、花の香は女子のために、迷悟もどきは壮年老年のために創作されたものである。
 青壮老年の修養は誰もが気付く事であるが、女子教育に考え及ぼしたのは確かに尊敬に値する。現代でも女子教育のことで完全な考えを持っている人は政治家の間では絶無に近かろう。

武 蔵 野
むさしのに、草はしなじな多けれど 摘み菜にすればさても少なし、みな人は、若き時より、いたづらに日を暮らし、才知芸能無き人は、宝の山に入りながら、空しく帰るが如きなり、たまたま人間界に生まれ来て、真如の玉を磨かずば、人と生まれし甲斐ぞなき、人より浅く思われ、犬の年ふるごとくにて、朽ち果つるこそ無念なれ、またいつの世の、いつの時にか磨くべき、頼まれぬ世にもあるかな月鼠、そよく草葉の露の身なれば、たとひ高位長者の身ともなり、七珍万宝みちみちて、栄華に誇る楽しみも、一夜の夢の如くなり、観楽極まりて、哀情多しと、古人の文にもしるさるる、さればげに、生々世々の楽しみは、心の中の月や花、会者定離生者必滅は世の習、春去り秋は蝉の声、さても果敢なき浮き世かな、世の中を思へば夢か電の、ちらとする間の語らひも、けんどん愚痴は迷なり、引寄せて、結べば草の庵にて、解くれば元の野原なりけり

花 の 香
梅は匂よ桜は花よ、総じて人は情けの下にすむ、峰の小松も、ひとり立つとは申せども、夜半の嵐は免れ難なや、富士や浅閒ヶ獄とても、霧や霞みに埋もれて、三千世界に、光を照らす日月さえも、雲の閉しは如何にせん。ましてや人間の、五尺に足らぬ身をもって、獨り立ちして世を送らんと、思ふ人こそ果敢なけれ、君は臣下を頼み、臣下はまた、君を頼み奉り、親子兄弟、朋友夫妻の仲とても、互いに頼み頼まれて、妹背の仲にて、世を送らんと思ふ人こそ、これがまことの人なれや、われわれ斑白を過ぐる身は、風の前なる灯火にてはあらねども、消ゆるに易き身をもって、悪を企むは地獄なり、然を願ふぞこれが極楽。地水火風の娑婆のかりもの、死して冥土に赴けば、我物とては一物もなし、釈迦も孔子も、名のみ残りて今は無し、達磨尊者の、無一物と説かれしことも、げに理と知られたり、されは古、花に増したる、美人の数を数ふれば、漢の李婦人唐の楊貴妃、わが朝にては二條の后、和泉式部に小野の小町、常盤御前といわれし人も、死すれば野辺の土となる、その名も、高尾の紅葉野田の小ふじ、吉野の桜北野の梅も、盛りのほどは名も高けれど、散りての後は色も香もなし

迷 悟 も ど き
迷ふが故に三会は暗し、一心悟れば、十万世界は広うして、地獄も餓鬼も我にあり。
彌陀(※5)も浄土も他にあらず、仏とは、何を岩間の苔衣、ただそのままの姿にて、慈悲より他に宿心はなし、唯何事も、腹は立つとも言葉は残せ、言葉少なく品多くして、いつも人には情けあれ、情けは人の為ならず、めぐりめぐりて小車の、跡には我が身の為となる、されば古人の言葉にも、聖人は人を誹らず、仁者に敵なし、大海は塵を択ばず、枝高きとて、風にはもろくもあだ折れぞする、悪まる人には、なほもよくあかつき撓へ見よ、跡には深き友達となる、身のよしあしは、人の上にて我身を磨け、友は鏡となるものぞかし、我よきに人のあしきは無きものよ、唯人は、善し悪しと思う心をすてて見よ、何処の里にも住みよかるべし、我智我慢我力を拂ひすて、彌陀頼む、心は西へうつせみの、もぬけ果てたる身こそ安けれ

※5)彌陀(みだ) 阿弥陀の略

これらの他に軍談ものも出来た。それらを日新斎は武士の間に発表したところが非常に好結果を得た。そこで習いたい者には教えてやるようにした。また琵琶歌にも勿論織り込まれているが、第一に武士の自尊心や、名誉心を持たせるように仕向け、大に品性の向上に努力し、くだらない娯楽物に接近することは武士の恥であると自覚せしむる教育もした。この芸当は小細工のみの片々才子政治家には出来ない仕事である。ことに近頃のように、人気取り政治家や、倫安政治家や、お乳母日傘で育ってズルズルと順風に帆上げて苦労の足りない役人や事務官のような大臣達には注文するほうが無理かもしれない。カッフェーが殖えても、ダンスホールが殖えてもへんてこな小唄が殖えても、活動写真がいかに悪用されても、そして、それらが国民を軟弱化し、気魄(はく※6)を消失させつつあっても、彼らが選挙権を持っている為に文句一つ言えなかったり、合法的という言葉を無二の珍宝の如く高調(※7)して机上の責任のがれに汲々たる政治家や、役人共だから心細い。
 そこへ行っちゃあ日新斎は偉かった。くだらないものはビシビシやっつけた。少なくともくだらない娯楽物や、士気を低下せしむるものに対してはボイコットをやらせたり、クーデーターをやったりしたのは確かである。その代わりに琵琶や、士踊や、天吹は非常に大切にした。

※6)魄(はく) たましい、精神をつかさどる陽の気を魂(こん)というに対し、肉体をつかさどる陰の霊気
※7)高調(こうちょう) 高い調子、強気

士踊と天吹 さむらいおどりとてんふく
 しかしてこの当時も今も変わりなく、一方に堅い数を以てしても他方に現時、猫も杓子もやるダンスだの、小唄式のもの、あるいはカッフェーに匹敵するものが存在していたが、もっと高尚な楽しみがなかった。そこへ日新斎は、琵琶、天吹(てんふく)、士踊(さむらいおどり)などを作って発表したわけである。つまり卑属なる趣味性を棄てて高尚なる趣味性を涵養(※8かんよう)する教育を施し、在来の娯楽物と交渉し断たしめ、これに代わるに以上の三種をもってした。
 しかしながら、如何に滋養分のある食物でも、調味法が下手ならば誰も喰わない。また調味法は上手でも滋養分が逃げてしまうようなやり方でも困る。滋養分が逃げず、そしてうまく食べるようにするところに料理人の料理人たる価値があるのだと思う。日新斎はこの点に於いて十分の腕前を持っていた。
 私は士踊を見たが、その勇壮活発、そしてまことに朗らかな、しかも流石に高尚なもので、その上興味多分なものであった。あれに興味を持たない者ならば、それは日本人としては少し出来損ないの人間だろう。更に天吹の優雅なること、また琵琶にしても実に立派な出来映えである。これらの舞楽、器楽、声楽と三種をもって臨んだ日新斎には、いかに考えても尊敬せざるを得ない。また、天吹や、琵琶を陣中まで待っていって戦のひまに演奏した薩摩の古武士の風習に誠に美ましいものがあるではないか。
 琵琶の歌詞も、世人の多くはご存じと思うが、みな生死を明らかにするもの、勧善懲悪、仁義忠考のものばかりあって、それを面白く、また弾奏者も聴衆も元気の出るようにできている。

※8)涵養(かんよう) 水が自然に染みこむようにゆっくりと養い育てること

 いま士踊、天吹、琵琶について、お家兵法純粋をチョイスしてみると。
御国の儀、昔は他国同前に、男女貴賤を別けたざる処の歌舞のみにして、勇士の義気を養ふ歌舞これ無く候を、日新公はじめて士踊を御作り、飾を御付け、士の勇気を養ひなされ候、面して是れは衆と共に楽しむの業なれば、陰鬱たる閉居などに心を楽しましめ、気を延ばし候所作を考へられ、天吹を吹かしめ、楽器のうちなる琵琶を弾かしめ給ふ。
これにも歌を御作り、正老病死、盛者必衰、有為転変の道理を御知らせ、中にも中老以後の気を養ひ楽しましめ給ふ。而してこれみな旗下の壮士以上の歌、踊にして、女性、又者、陪臣以下謡ひ踊ることを免し給はざることなり(中略)
 諸人知る通り、天正、慶長頃は、三味線座頭無之ところより、座問と申せば地神盲僧にて候故自然と座問の歌と申馴はし候なり。然れ共畢竟(※9ひっきょう)は、薩隅日三州の士以上を謡ふべき端歌にて候故、今も地神盲僧甚だ格衰へたりと雖(いえど)も之を免し、その外は士の外これを謡ふことを免さざることなり。且また兵小(へこ)歌、二才(にせ)歌とて有之候。これも士の外は免さざるなり。
 合戦の勝負は計り難きことにて、敗軍に及び、気屈し候時も、士歌を謡ひ、士踊を踊り飛ぶ時は、また勇気を発揮し、或は心肺を労し心楽しまざる時、琵琶を弾じ、座問の歌をば謡へば、生を安じ、迷を解くこと多くして、或は恨を散じ、或は身を顧みずして能く難に堪ふることあり。これにな日新公深慮より出たる今の淫聲第一の三味線を焼きすてる戦国に処し、明日は強敵の陣頭を破るべしと思ふ心なりて是等の理を考え知るべし。
(原文は漢文交じり) 以上の通りである。

※9)畢竟(ひっきょう) 仏教用語、(究極の)最終、至極

二才咄一式定目
 頼山陽でご存じ健兒の社では、社の者が、琵琶、天吹、士歌、士踊以外の娯楽物に接近すると相当手厳しい制裁を加えた。あの健兒の社の規則書を見ると仲々面白い。
 元来、健兒の社というのは、俗に郷中と称して、当時藩内の美風を養成する唯一の青年団である。この規則の一番古いものとして残っている新納武蔵野守忠元の手書に

二才咄一式定目
一、第一武道を嗜むべき事
一、兼て士の格式油断無く穿儀致すべき事
一、萬一用事にて付て咄外の人に参会致候はば、用事相すみ次第早速罷帰長座致すまじき事
一、咄相中何色に依らず入魂に申合せ候儀肝要たるべき事
一、朋輩中不作法の過言互に申懸けず、専ら古風を守るべき事
一、咄合中、誰人にても他所に差越候節、その場に於て相分り難き儀到来致し候節は、幾度も相中得と穿儀致し越度無之様相働くべき事
一、第一は虚言など申さざる儀士道の本意に候條、専らその旨を相守るべき事
一、忠考の道大形無之様相心懸くべく候、併し乍ら逃れざる儀到来候節は、其場をくれを取らざるよう相働くべき事武士の本意たるべき事
一、山坂の達者心懸くべき事
一、二才と申す者は、落鬢(※10びん)を剃り、大りは(※11)をとり候事にては無之候。諸事武邊を心懸け、心底忠考の道に背かざること第一の二才と申す者にて候。此儀は咄外の人絶えて知らざる事にて候
右條々堅固に相守るべし。若し此旨に相背き候はば二才といふべからず。軍神摩利支天、南無八幡大菩薩武運の冥加盡き(※12)果つるべき儀疑ひなきもの也。
慶長元年正月                        二才頭

とある。
 こうした処で、子供の時分から武士として必要な質実剛健の気を養成し、それに順応し或いはそれを助長する娯楽を配したから、三州の士風はいよいよ向上した。その後の藩主も、日新斎の遺志を継いで士気の向上発達に努力し、また琵琶歌も作り、中には自分で弾奏はおろか、琵琶(楽器)を作った領主すらあった。

※10)鬢(びん) 耳きわの髪、頭髪の左右側面
※11)大りは 前髪の剃り様
※12)盡(つ)き 終わること、尽き

前章へ戻る | 次章へと続く

琵琶読本 目次へ

Posted in 琵琶読本

コメントは受け付けていません。