[最近琵琶発達史] 第八章 初代橘旭翁の苦心(1)

女琵琶師のロマンス
 旭翁の功績については名家評伝中に略叙してあるが、やはり順序として一通り述べようと思う。
 さて国民子(※1)の書いた「女琵琶師のローマンス」は、

「琵琶 ー私はそれを考える時、私達が学生であった頃に親しんだ薩摩琵琶の男性的な、そうしてあの曲と譜から来る動的なメロディとを思う傍ら、女性的でまた静的である筑前琵琶をも忘れない。とはいえそれよりも源平の戦が産んだ平家物語の中の皇后太夫経正が、院の御所に伝家秘蔵の桑胴を返す詩の如く美しく、歌の如くに哀れな戯曲的の文章が頭に煌めく。金銀小宝に銀鞍白馬の美少年の貴公子が傾く家運よりも、宝玉の如く慈しんだ自分の芸術を尊重する意気に一種言い知れぬ昴奮を感ずる琵琶!。紅粉花顔嬌唇を開いて弾奏する筑前琵琶。私は今、後者が短月日の間に長足の発展をした点に於いて、あるいは女が弄ぶが為、世の好奇心を持つ人に現実暴露的な感慨を惹き起こさんがために筑前琵琶の事を少し語ろう」

という所から筆を起こしている。事実、国民子の覗いどころが良かった。女流琵琶師の手によって上流以上の家庭に浸透してゆく ーそこに言い知れぬ真相が含まれていると思う、そして私は同時に初代旭翁の賢明さを思わずにはいられないのである。女が弄ぶがためー 事実これがために短月日の発展を遂げたとも言えば言えよう。それは芸術的価値においても在来(※1)の日本音楽を超越しているかもしれないが、本編として芸術的価値を云々するのはその役目ではない。ただ筑前琵琶が女性の手によって旺然たる家庭音楽となり得た事は争えない事実であるというのである。言い換えれば薩摩琵琶が男性を代表しているのに対して、筑前琵琶は女性を代表する家庭楽であるといって構わないだろう。かくして斯界を両断するに至ったと観察すればいよいよ初代旭翁の先見の明を讃えずにはいられないのである。

※1)国民子 作家?詳細不明
※2)在来(ざいらい) これまであったことや行われていたこと、風習

 続いて国民子の言うところを聞こう、
「東都から三百里を外にした筑前の国では、在郷の各村で荒神祭を挙行(※3)する際、盲目師が琵琶を片手に弾じつつ経文を読んで余興的にして居たものである。そしてこれを筑紫琵琶と呼んでいた橘智定こと初代旭翁は、代々この土地での琵琶法師の宗家であったが、なんとかして筑紫琵琶を少し改良して上品なものにするべく日夜苦心した」と簡単に片付けている。もっとも女流琵琶師のロマンスを書くのが主眼であったらしいから無理もない。そこで初代旭翁の苦心その惨憺たる有様は琵琶評論の方が詳しいからこれによるとする。

※3)挙行(きょこう) 儀式や行事などを執り行うこと

初代旭翁の苦心
 旭翁は改良の初一念を貫徹すべくまず琵琶を抱いて薩摩に入り、そして粉骨砕身あらゆる辛苦をなめた。いったんは琵琶を打ち砕いて帰国しようと思ったこともあったろうがしかし、旭翁の志は金鉄の如く固くあった。炭部屋に起臥してほとんど不眠不休の切磋琢磨は僅々半歳の短時日に過ぎなかったが、その収穫は遙かに観光的遊学者の三-四年にも匹敵するほどの成果をかち得たと称されている。実に旭翁の研究的努力は己を空しゅうして芸術の向上発展を図らんとする一念の外の何物でもなかったと評論子は賞めちぎっている。しかし私は覇気満々たる偉丈夫であったと思うと付け加えたい。

 その旭翁が薩摩を去る日、別府藤左衛門という人から桑材で作った一面の琵琶を餞別に贈られた。旭翁はこれを見て筑前琵琶も桑材で作ったらー とそう直感的に考えたのであった。そして帰国するや否や、福岡橋口町の琵琶製作師の瓢一君に嘱して桑材で作らせてみた。

 元来崩れ琵琶は栴檀(せんだん)のみを用いその形も広狭長短まちまちであって胴の幅は概ね七寸内外であった。しかるに旭翁は発音の研究から考案した幅八寸六分長さ二尺八寸を定寸(※4)とし、かつ天地人三分に分解できるようにした。いうまでもなく旭翁はいちいち細心の注意を払って指図した。そして瓢一君がその指図を待って作り上げたのが理想的桑琵琶である。かくして帰国後の旭翁はたとえ対手が少年にせよ、また老人にせよ、いやしくも琵琶の名手ありと聞けば直ちに馳せて弾じ合った。そして研究に研究を重ねたのである。その対手の琵琶が必ずしも名人上手の域に達していなくても旭翁は尚これを蔑視せず、つぶさにその長所を探り求めた。あたかも道に迷える者が住民*に道を尋ねるように、また長患いの妙薬を求めて倦(※5)まざるの態度であった。
*編者註)原文は土人

※4)定寸(ていすん) 標準寸法
※5)倦む(あぐ-む) 何かをし続けて嫌になる、疲れること

筑前琵琶誕生
 かくの如くして、あるときは長崎、あるいは熊本、対州島原にまで足跡を遺した。しかし薩摩琵琶に優るものはなかったので遂に薩摩の長所取り、筑前の短所を補って一新基軸を出したのがすなわち今の筑前琵琶である。ただし、当時はこれを改良琵琶、または筑紫琵琶と称していたのであって、筑前琵琶と命名するに至ったのは旭翁上京中の事であるという。
 旭翁が赤間町に在って専心研究に没頭しているときに琵琶歌に手を染めたのが当時福陵新報(今の九州日報の前身)記者である今村外園、平田学、葉石銅陽の三君である。今村君は扇の的、小督局を。葉石君は七卿落を、平田君は呑取鎗の新作を各々出した。特に今村君の作歌は佳句麗章が累々として美文的であり、那須與市の如き、あるいは小督局の如き琵琶歌として上乗の出来映えである。

 明治二十六年、南部重遠(露庵)は、また福陵新報に入り、今村君は軟派で文名を走らせ南部君は硬派で盛んに侃諤(※6)の議論を戦わす傍ら漢学を教えていたがその門下には末永節、佐久間秀吉、朱雀熊三郎、清水音吉、高川鉄馬の諸君がおり、高川君の紹介で南部君は朱雀、清水の両君を旭翁に弟子入りさせた。これが南部君と旭翁とが親交を結ぶようになった最初であるそうな。

※6)侃諤(かんがく) 盛んに議論を戦わせるさま、侃々諤々(かんかんがくがく)

第八章 初代橘旭翁の苦心(1)女琵琶師のロマンス〜筑前琵琶誕生 続く

「第七章 永田君の所感を引いて(3)未来への展望」に戻る
「第八章 初代橘旭翁の苦心(2)旭翁の見た夢〜花柳界進出」に進む

最近琵琶発達史 目次へ

Posted in 最近琵琶発達史

コメントは受け付けていません。