琵琶歌「勧進帳」の考察

勧進帳は、謡曲の「安宅」を元に能、歌舞伎とそれを基にした長唄で長く演じられてきたもので、今でも各方面の表現手法で取り上げ続けている演目です。錦心流の琵琶歌に取り上げられ始めたのは錦心宗家存命中の大正5年、古典芸能に造詣の深い作詞家飯田胡春の作により当初より錦心流秘曲として皆伝者以上にのみ許される演目でした。

当時の琵琶新聞に、勧進帳のみ通常の五割増しで演奏を申し受ける旨通達が載っています。当時の錦心流勧進帳は、歌舞伎版を基本として、一部能から省かれた部分を復活させるなどの工夫が見受けられます。独奏前提で考えられた歌詞のために、演者は語り部としての視点に固定しており、富樫に制止されるや、弁慶は流暢な台詞回しの東大寺勧進の理由を述べ、「それならばあるべき勧進帳を読み上げてみよ」との問いかけにいとも容易く応えてみせるのです。

掛合勧進帳 浅野晴風 谷暉水 絃:水藤錦穣一門

さてそれをさらに演劇的に拡張(本来それが本流)させた掛け合いの勧進帳は、元々昭和30年頃に錦琵琶宗家水藤錦穣の実兄である中村櫻統(禹水という水号者)が友人と始めたのが元で、錦穣はそれをみて浅野晴風氏の豪快な弁慶と石田脩水氏の繊細な富樫を併せたら面白かろうと企画したのが初めとされています。作詞は元々の飯田胡春版に、歌舞伎にある安宅の関守富樫左衛門の口上を加えたり、終盤富樫が酒肴を持って現れ、それに応える弁慶の舞、いわゆる滝流しを加えるなど、いかにも歌舞伎然としたスタイルに回帰したものです。錦穣は作詞をしませんので、上記の脚色、潤色には水藤家所縁の文筆家、水藤安久氏がそれを担当して作詞を完成させました。この掛け合い勧進帳は昭和40年頃の初演で好評を受けて以来、何度も再演を繰り返し、錦琵琶水藤錦穣、錦心流浅野晴風派の十八番として大いにもてはやりました。

ところでこの掛け合い勧進帳、原作である能の安宅と比して大きく違う部分があります。それは、勧進帳の読み上げに到るやりとりと順番が入れ変わっているのです。本来

富樫の口上
山伏に扮する経緯〜安宅到着
富樫との対面
弁慶の山伏口上△
勧進帳読み上げ◇
通る義経に嫌疑
弁慶杖で打ち据え〜無事通過
富樫酒肴持って現る
弁慶の舞(瀧流し)
虎の尾を踏む大団円

という流れになっているのを、△と◇の山伏口上と勧進帳読み上げが逆になっていて、富樫が弁慶にさっさと先に勧進帳を読み上げてさせたのちに、「さりながら事のついでに問い申さん」とさらに喰い下がって問答させています。本来弁慶が一人で語る口上を、富樫にわざわざ一々詰問させる形で掛け合いに作り直しているのです。

歌舞伎以降の勧進帳で富樫は、すでに一行が義経主従である事を見破りつつも、快僧弁慶の機転と豪胆さに感じ入り、自らが責任をとって義経を通し、あまつさえ酒まで振舞って一行旅の無事を祈念します。その虚の中に信義を感じさせるところに、古来勧進帳が長く愛好される所以があると思います。今後是非とり組んでみたい演目です。

Posted in 令和琵琶歌の研究

コメントは受け付けていません。