寛永の喜劇 曲垣平九郞

錦心流を追放されて間もない昭和6年頃にひょんな事から錦琵琶が獲得した初老の作詞家田中濤外。彼が水藤家にて酒と肴をつまみながら作詞した最初の十数曲の中に講談で有名な「寛永三馬術」を基にした曲垣平九郞がありました。本曲の元ネタは当時流行っていた講談の-寛永三馬術-出世の春駒。五代将軍徳川家光が墓参の帰りに通りかかった芝愛宕山の梅の花を、戯れに旗本衆に乗馬したまま採って参れと発したところから事件が始まります。

水藤錦穣 曲垣平九郎 (昭和27年頃)

錦琵琶の二代目宗家の水藤五朗師もコラムに書いていますが、太平の世になって久しい徳川の家臣団は若き将軍の申しつけにかかわらずなかなか重い腰を上げない。これがもしあの織田信長の命であったら家臣団が躊躇しようはずもないだろうと。このあたりが本作品が喜劇であると述べる所以であります。加えて(扇の的のように)失敗した挑戦者がその場で腹かっさばくような覚悟もなく、きわめて長閑な雰囲気で原作では四人の馬術自慢が階段を転げ落ち、あまつさえ家光自身が挑戦しようとするを側近の旗本が停めにかかり讃岐の大名生駒某が家臣の曲垣を売り込んで平九郞にお呼びががかかるという流れになりますが、本琵琶歌ではそのあたりが整理されてまず二人が落馬、家光が我こそはとはやるを大久保彦左衛門が身体を張って停め、そこに曲垣が「恐れながら」と名乗りを上げるという流れになります。ここから先は錦穣先生自身が「琵琶弾法のマラソン」と言っていたように錦のありとあらゆる技法を使って平九郞の優雅な馬術、秘術を表現します。
原作講談と琵琶歌とを対比して思うのは、講談の曲垣はどちらかというと風体のさえない中年の窓ぎわ武士で、馬も年老いた駄馬。いうなれば釣りバカ日誌の浜ちゃんがドンキホーテの愛馬ロシナンテ号に跨がっているようなイメージ、それが琵琶歌になると俄然精悍な若武者(若いとはどこに書いてない)に演出されてしまうのですから、物書きとはつくづく嘘つきであります。
錦の曲垣は戦前戦後を通じて錦琵琶水藤錦穣の十八番としておおいに流行りました。

原作で家光が所望したのは本来は桜ではなく梅の花です。それを錦穣門下の雅号、”桜”にちなんで「仰ぐ愛宕の山桜」と桜に変えたのは、この錦の琵琶歌が最初です。その後に本家たる愛宕山も桜が植えられて桜の山になりました。田中濤外の作詞は筑前の橘宗家を通じて橘流でもやるようになったと錦穣先生が名曲選の解説で自ら述べています。

公式録音について
田中濤外作、水藤錦穣演奏の曲垣平九郞は3回吹き込み(レコーディング)されています。最初は昭和8年頃ビクター版SP。歌詞はほぼ同一ですが弾法がさらっとしていて後のそれと趣が違います。SP版2回目は新興会社キングから。これは戦後の演奏にかなり近く弾き始めや唄いだしなど、オリジナルの創意工夫が伺えます。そして3回目はだいぶ最近になって昭和39年のLPポリドール版(曲垣/うつぼ猿)。完成版というべき内容で音質も良く、聴き応え充分です。他に錦琵琶本部が配布している「錦琵琶名曲選」カセット版の第一回目も曲垣平九郞です。上記に書いたように錦穣先生自身の解説も入っています。

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