[琵琶読本] 撥使いについて名人の話と実例

撥使いに就いて名人の話と実例
 「撥使いは強く大きくせよ」といえば、なかには「そんなことをすれば腹板の音が悪かろう」という人もあると思うが、よほど出来の悪い琵琶なら格別のこと、普通に出来ている琵琶なら決して心配はない。一例を挙げると故高木猛君である。彼は純然たるアマチュアで、実際の趣味として琵琶を弾いた人であったが、私はこの人は全国においての第一流の名人であったと信じている
 この高木君は自分で琵琶を持っていない。したがって常に練習も何も出来ない。ただ時々弾きたくなると、琵琶を弾く人の宅へ出かけてちょっと弾いて楽しむという程度であったが、若いときに確乎(※1)叩き込んであったと見えて、腕が少しも鈍らない

※1)確乎(かっこ) しっかりして動かないこと

 ところでここに一人の快男児がいた。快男児その名を伊達新蔵といったが、今では鹿児島へ帰って伊達熊太郎という先代の名跡を継いでいるが、これも名人である。この伊達君が芝にいた頃、高木君とは飲み相手だし、それに同郷であるところからよく遊びに来ては弾いた。私も両君とは極親しかったので、三人はよく弾き合った。

 伊達君の琵琶は「西風」と名付け、かの有名な名人故伴彦四郎氏の作で、木上先生の「朧月」、永井氏の「木枯」などと兄弟琵琶であるが、伴先生ほどの人の作だが、この西風は腹板が不出来で、弦の音は良かったが撥音が悪かった。持ち主の伊達君が弾いても私が弾いても、腹の音はボテッと不愉快な音がしたが、ひとたび高木君の手に移ると、バチッと実に歯切れの良い音や、ペタリッと柔らかい音がするので、如何したらそんな気持ちの良い音がするのかと教えを乞うた。すると「なあに、腹板の音がよいとか悪いとか、そんなことを考えて臆するからいけない。その心持ちがスキを作るので、そんなことを考えずに法則通りの弾き方で一心込めて他を顧みずに弾けばよいのさ」と答えた。なるほどと私は思った。

 また木の上先生(これは自分の師匠のことを言ってはちょっと変だが、伴彦四郎先生の秘蔵弟子で、我遂に及ばず、と師の伴先生に琵琶を措かしめた人である)や、須田綱義氏(号を龍吟後に龍翁と称す)の両名人、この両人は頗る名人で、両人の死後はこれに匹敵する者は出来なかろうとまでいわれた人達であるが、両人とも撥は実に冴えたものであった。現代の琵琶通がってる連中も、かかる名人の芸を聴聞したことがあり、または聴聞したことがあっても、それを聞き分ける耳があれば今(*昭和7年現在)のような批評はできまいと思う。

無の心
 この両人について尋ねてみたが、木の上先生は島津家の撃剣の指南家の出であった為か剣道方面から例を引いて話されたし、須田氏は弓術の達人であっただけに弓道の方から説かれたが、煎じ詰めればいずれも「無の心」であった。
 また当時第一の大家永井重輝氏も、何も考えずに肩で弾けと言っておられる。
 その他参考として三味線を聴いてみるとよく分かる。下手が弾くと撥音がボテッとまるで皮のたるんだものを叩くような音がするが、上手が弾くとバチッと実に気持ちの良い音がする。ご存じの通り三味線の表は薄い皮である。それでもあんな歯切れの良い音がするのから考えても個中の消息はよく分かることと思う。

 しかし私は蛇足かもしれないが、また僭越でもあろうが、これら諸先輩方の言にもう一つ足したい。
「撥は大きく強く使うと同時に必ず鋭くせよ」と言いたい。これがなければ強さに物足りない点ができる。ちょうど突くのと、押すとの差のある如く、単に強く大きくのみでは駄目である。

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