[琵琶読本] 歌と弾法との関係

歌と弾法との関係
 歌と弾法とは、一口にいえば夫婦関係である。歌が夫、弾法が妻である。しかし夫婦関係といっても、世間にあるところの「女房がいないと不便だから女房を」とか「どうせ一人では具合が悪いから亭主を」というようなまるで事務員でも置くようなものとは私の言うのは趣が違う。もっと純な、本当の夫婦を指していうのである。

弾法は女房
 琵琶も、雅楽時代には楽器として存在していたが、平家になって以来声楽になったのだから琵琶という楽器は伴奏物になったのである。つまり女房役を相務めるのである。これが為に弾法が主であれば女房のでしゃばる事になり、牝鶏晨を報ずる(※1)事になる。といって程度を越して歌に片寄ることは無論良くない
 何にしても、弾法のみに走ったり、歌のみ片寄る事は要するに醜体である。お互いに相助け、そして第一線に立つ夫たる「歌」に常に活気を与え、夫をして充分に活躍せしめねばならない。また夫が程度を越して脱線せんとする場合はブレーキの役も務めねばならない。

 グータラなゾロッペーの妻、金棒引き、嬶(かかあ)天下、常に亭主と喧嘩する妻、虚栄心の強い妻、嫉妬深き妻、というような者にかかったら亭主は実に惨憺(※2)たるものだが、弾法にもこの類いのものが至るところにあるのは気の毒なもんだ。しかも薩摩琵琶は弾法も、歌も一人で演ずるのであるからこれらの醜体におちいると否とは一に弾奏者の頭の働き如何を思うとき、しみじみ気の毒さを感じる。

 くり返し言うが、歌と弾法とは夫婦の関係である。弾法と歌とが常に仲良く、お互いに相助けていなければならない。しかしお互いに痒いところへ手の届くような助け合いは双方が理解し合わないとできない。
 その人の、単に弾法だけを聴いていれば立派なものであっても、歌に合わせるとなると成っていない、つまり娘としては立派でも、女房としては落第である、というのでは困る。

※1) 牝鶏晨を報じす (ひんけいあした-を報じす) 雌鶏が鳴いて朝を知らせる-女が権勢を振るう-国家や家がが乱れる前兆とされる
※2) 惨憺 (さんたん) 見るに忍びないほど痛ましいさま
     ○

娘としては立派でも、妻とればガラスにも劣る (西諺)

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矢張り野に置けれんげ草

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