[琵琶読本] 妙寿流の弾法

昔は一人、その後は二人
薩摩琵琶が生まれた頃は、現在の如く琵琶の弾法は一人で演じた、決して「歌」と「弾法」とを分解して二人がかりで演じなかったが、代を重ねるにしたがって変化してきた。それは「琵琶は好きだが、歌うことは不得手だ」とか「声が悪くて歌えない」とかいうので歌の方はやらず、そのかわり弾く方は自信があるというので弾く方ばかり稽古する、と言う人や「弾くのは不得手だから歌をやる」というので歌ばかり稽古する人が出てきて遂に別々に分担するような具合になった。

化合と混合
 もちろん、その人達は弾く事の得意なひとは独りで弾いて楽しんでいたことだろうし、歌の得意な人は歌う事だけで楽しんでいたに違いない。そして鑑賞力の幼稚な聴衆は、甲は弾法が上手だ、乙は歌が上手だ、そこでこの両人で一曲を弾奏したら面白かろうというところから、今の三味線のごとく歌い手と弾き手とができた。これが皆が皆というわけではなく一部であったが、そうした事をやる程に、やらせる程に幼稚であったのだ。なぜそれが幼稚であると私が断言するかといえば、それは三味線の歌は節も手も決まっている、薩摩琵琶には大干とか切りとか中干とかという風に大体の決まりはあっても、それは自由に自分で添削取捨して弾くようになっている。その添削、取捨は実に歌を活かす為に行うのである。しかるにそんなことを考えない人が、こんな音もある、こんな節もある、とほとんど勝手にと言ってもよいくらいに無節制に弾法や歌を各々が練習して、あたかも独立の体をなしたものを以て二つ合わせたところで駄目なことは決まり切っていて、息が合うという訳がない。全くお互いが技巧に走りすぎて二人の中に統一のない露骨な二重人格を表示したものだ。

妙寿の出現
 しかしそれでも聴衆は喜んでいたらしい。そこへ今でも往々見受けるが「俺は弾奏こそ出来ないが耳だけは肥えている」という半可通(※1)のインテリがその当時でもいた、そしてそれが年長者だとか、上役ででもあると封建時代であるだけに事面倒である。この連中の毀誉褒貶(※2)がはなはだ気になって遂にこの連中すなわち半可通のインテリ共が注文を無条件で受け入れる、そうした社会であった為に一人で演奏しても気の利いたリーダー、または真の批評家がいなかったために部分的な発達を統一する頭ができず、依然として弾法は弾法で発達し、歌は歌で発達した。つまり弾法と歌とが別々のもので押し通してきた。その時にその欠点を発見して奮起した人があった、その名を妙寿というのである。

※1)半可通(はんかつう) いい加減な知識しかないのに通人ぶる人、またそのさま
※2)毀誉褒貶(きよほうへん) ほめたりけなしたりして評価が定まらない事

妙寿の頭の働き
 妙寿は、盲人でこそあれ頭の良い人であった、ここにある日の妙壽のことをちょっと話して彼の頭の働きの素晴らしい所をうかがおう。
 妙寿は、声の立たない人であった、今のいえば彼の声の高さは1本ぐらいの人であった、ところがある日の大会に剣見崎一助? と顔が合った。この剣見崎氏の声は実に張りがある、立つ声であった。
 剣見崎氏は歌が得意で、後には、畏くも 明治大帝の御前演奏をした人である。妙寿は当時既に老大家の名を確保している名人であった。
 一方は声が立つ、一方は立たない、一方は新進の名手で若手である。一方は老大家である。しかも妙寿はなんとも思わなくても剣見崎の方では妙寿の堅塁(※3)を陷れるべく、常に虎視眈々たる有様であったが、それが一堂に会して弾奏することになった、その上に芸敵妙寿の直前に弾奏する機会を得たる剣見崎の喜びや蓋(がい)し思い見るべきである。
 聴衆の方でも剣見崎ひいきの人達は、この戦はもちろん剣見崎の勝利なりとし、一方では妙寿に勝利の栄冠下るは確実なりと囁くもあり、不安のうちにも勝利らしく思う者、安心の背後から不安に突き飛ばされる者などで、もう琵琶を聴くよりも人情と好奇心とが場内を錯綜して妙な興奮状態を呈した。
 剣見崎は、今日こそ強敵妙寿の白髪首を見事に打ち落としてくれようと一層の緊張に、常よりも一段と声を張り上げて演奏した。衆皆その演奏の熱にあおられ、意気に感激して手に汗し、切り声も勇ましく発せられ縦横無尽に感激せしめられた。

 曲終わって我に返った聴衆のうち、妙寿びいきの人達は俄然不安状態に置かれた、剣見崎ひいきは我事の如く得意になった、そして中立の人達は多大の好奇心をもって次の演奏を待った。この異様に興奮した会場内をこともなげに瞥見(※4)して、彼妙寿は傍若無人にも悠然と壇に登った。そして落ち着き払って弾奏にかかったが、これは意外!平常の調子よりも一段と下げた、一同は唖然とした。
 普通の人なれば、前に出た人の高調子に釣り込まれて、出もしない声を無理に張り上げて高く歌うであろう、しかるに意表外に出た妙寿の頭の働きには敬服に値するに充分だ。
 果たせるかな一同は妙寿に吸い込まれて終わった、その妙寿の神技、その厳粛荘重なる品位に全く尊敬心服の嘆声が曲後場内の全部に囁き渡った、さすがの剣見崎も衿を正した。
 あぁ斯くて名人妙寿の地位は微動だもしなかった

 これほどに頭の働く名人であったから、在来の演奏の欠点をよく聞き分け、また名人なるが為によい工夫も出来たことと思う。
 彼は在来の不統一なる弾奏にみずから鉄槌を加えて統一された演奏を産むべく、弾法に多大の注意を払い、ここに一つの流風を編み出した。果然「妙寿の弾法は歌によく合う」というので当時の琵琶界を風靡した、そしてその流風は脈々と今日まで続いている。現今一般に行われている弾法は、僅かに西幸吉氏一派を除けば滔々(※5)として妙寿の流れを汲んでいる。
 妙寿は「弾法は歌に合うようにやらねば何にもならない、のみならず場合によっては歌を殺してしまう」という見解を下して、新しき弾法を創作した。その考えが実に尊い。その尊い考えから産み出したる尊い芸を衆皆山の如くに敬い望んだのは当然である。

※3)堅塁(けんるい) 守りが堅い陣地、転じてなかなか打破できない相手のさま
※4)瞥見(べつけん) ちらりと見ること
※5)滔々(とうとう) 水などの流れが淀みなく流れるさま

愚公移山
 古へ支那に愚公という人がいて、二代かかって山を移動させた。ところで現代の琵琶界を見ると、妙寿が拵えた山を皆して寄ってたかって崩して砂利にして道路に敷いてしまった感が無きにしもあらずである。それがために妙寿山の砂利は至るところに見受けられるが、山はもう無くなったようだ。
 崩した砂利で妙寿以上の山を作るのが現代人の使命であると思うが、砂利ばかり踏んで盛んだ盛んだと喜ぶようでは情けない。この事について言いたいこともあるがそれは他日に譲る。

 要するに妙寿の建設に対して、今では暇令流風は妙寿であると称しても、根本の感念が違うために破壊的に進んで、元の通りの弾法と歌が合わないものにまでなってしまった。
 しかしこれも進歩の一過程、建設の階段とも見られるから色々とやってみるのも良かろうが、その色々とやることによって向上的のある変化がなければ何にもならない。ことにいわんや下落的変化あるに至っては現代人の恥を後昆(※6)に残すものである。

※6)後昆(こうこん) 後の世、また子孫や後裔

     ○

汝の父母を辱めざるよう勉めよ (英諺)

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