[琵琶読本] あしらい

「あしらい」とは、歌を一句うたうと一の弦と三の絃をトン、トンと打つ、あれを指していうのである。気をつけているとよく分かるが、一句歌うと必ずやる。
 それからちょっと琵琶を腿に乗せると直ぐトン、トンと必ずやる。これは調子を合わせることから来た一習慣かもしれないが、木上先生はこれを「弾法の終わり、または一句歌ってから一と三とを打つのは調子の狂いの有無を調べるためにやるのであって、一と三だけでは足りない、三(二)も四もやる必要がある」と言われた。しかし私は調子を調べる為のみではない、あれは「あしらい」であって、あしらいをやりながらそのついでに調子も調べるので、主たる点は「あしらい」であると言った。
 恩師に言葉を返すように当たったかもしれないが、私は常に先生に対しては思っていることを露骨に申し上げて、間違っていればこれを正していただくようにしていたので申し上げたら「なるほどそうだ」と仰った。

あしらいの役割
 この「あしらい」は、気の抜けた時、あるいは歌を忘れた時にもやる。つまり歌の気分をつなぐためにやるのだが、なんでもないようでなかなか難しい。上手な人は具合良く拍子をとってボロを隠すが、下手ではそうは行かない。そして下手だけに耳につく、耳につき始めるとうるさくてたまらない、私の述べたいのはこの点である。

 洋楽の独唱の場合に注意していると、歌の語尾には必ずピアノがトン、と入る。私はあのピアノがトンと入ることによって歌が引き締まっているものと思う。それと琵琶歌の一句の語尾に一と三とが入って歌が引き締まるのによく似ていると思う。
 「あしらい」は歌を引き締めること、間拍子を取ること、歌ってる声の脱線防止、楽器の調子の狂いなどあった場合にこれを直すのに人の耳障りにならないように直すこと、これらの働きをするのである。

 ちょっとここで述べたいのは、前述の調子直しである。
琵琶の調子は弾いている時には狂いも生じるが「あしらい」で狂う場合はないという人もあるだろう。そして「弾いた後に一と三を打つからその時に狂いは発見されるから別段「あしらい」に頼って狂いを発見することはなかろう」という人もあるかもしれないが、事実は違う。例えば弦の掛けたての場合、雨天の場合などは弾かなくても狂う。これは諸君が実験されればすぐわかる。

あしらいに形なし
 ところで、一句一句に一と三とを打って歌う声の脱線を防止しなければならない程のことでもないだろうから、これはいちいちやる必要はないだろうし、また歌を引き締めることも、間拍子を取ることも、必ず一と三を打たねばできないというわけでもないと私は思う。
 元来、薩摩琵琶の「あしらい」には一定した型はない。みんな臨機応変である。そこを考えて歌の文句によって用いるに当を得なければならない。

教化別伝
 そこでその方法または形式というが、緩急、強弱、有無、それから必ず一と三とを打つことのみではなく、他に適当な音を創作しても良い。しかしこの呼吸は教えようとして教えられるものではなく、習おうとして習えるものではない。いわば教化別伝で自得するしかない。というのが弾奏者が歌から受ける感じ、語気の強弱、声の鋭鈍等々、皆各々違うから弾奏者の気持ちでやるべきものである。だからあしらいに気がつけば、他人のやるのを良く注意し、自分のやる時も良く注意すると早いと思う。しかるに大概の人は「あしらい」に注意しない。ただ節回しや音階にのみ注意しているようである。

あしらいは歌の死活の鍵
 そこで私は最後に、「あしらい」は弾奏の価値を左右するほどに大きな役割を持っているということを諸君に申し上げる。実際「あしらい」の上手下手によって歌の死活が定まるといっても過言ではない。その大切な「あしらい」の形式や方法を教えることのできないところに薩摩琵琶の深い妙味があると私は思うのである。

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