[琵琶読本] 絃に対する不注意を戒む

 薩摩琵琶を弾くときは諸君も知る通り、押し干が多いだけに多く絃を締める。その締めるのには木でできた柱と弦と擦るのだからはなはだ傷みやすい、そして三味線の如く絃を爪で抑えるのではなく、指の腹を使うから汚れやすい。そこで常に絃を新しく取り替える必要があるが、新しいと伸びやすい。しかし古いと伸びるだけ伸びきっているからその点は安心である、そこで古いままの絃で以って弾奏するという具合になる。これは未熟な時代には誰もがやっていることであって珍しくはないが、古い絃を用いる為に往々ににして弾奏中に絃を切る、その結果弾奏の気分を破壊する。

傷のある絃は音でわかる
 中には新しい絃をかけても切る場合がある、これは弾き方が悪いのではなく、絃が悪いのであるが、それは絃をかけた時に音を聴きわければすぐに分かる。また絃に傷がある時も音で分かるものである。それが分からないうちは未熟の域から一歩も出てはいないことになる。殊に新しい絃では弾きこなせないというに至っては、一層の未熟と言わねばならない。

弾奏中の弦切れ
 けれども修行中はなんとも致し方がない。そこでもし不幸にして弾奏中に絃を切った場合は、控え室の人に代わりに琵琶を、調子を合わせて出してもらうようにするとよろしい。けれどもそうした用意のできない場合は「あしらい」等で間に合わすより他しかたがない。あたかも戦の場合に刀が折れた場合はありもので間に合わすなり、それもないときは徒手空拳(※1)で戦う、それも出来なければ睨み殺す以外にしょうがないと同じであると思う。のんきに絃を取り替えたりしていては歌の気分を壊す。歌の気分を壊せばもう聴く事がいやになり、その人の演奏が終わるまではなはだしく退屈である。しかるに悠々と絃を取り替えることを”落ち着きを示す”などと思っては大べらぼう(※2)である。

※1)徒手空拳(としゅくうけん) 手になにも持っていないこと、素手
※2)篦棒(べらぼう) ひどいさま、馬鹿者

悪しき実例
 かつて某氏Aが弾奏中に絃を切って悠々と袂から袋を出し、絃を引き出して落ち着き払って絃を取り替えたのに対し、某氏Bが批評して「堂々と大家の貫禄を示した」と書いた事があった。これらははなはだしい間違いで、てんで批評という言葉は用いられない。私は一聴衆(それも幼稚なる)、または無知なる聴衆の一感想としか受け取れなかった。もし私が評を下せば「堂々と馬脚を顕した」と言うであろう。ましてその絃を切ったのは歌曲のおしまいに近いところで「あしらい」にて充分いや十二分に演じられるのであったのだから、一層この感を深くするものである。

     ○

賢者は他人の禍をみて悟り、愚者はみずから過ちて悟る

     ○

己に勝る阿諛者なし

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