[琵琶読本] 楽器に対する観念

 良く聞く話だが「まだ練習中だから粗末な楽器でたくさんだ」といって良い品を選ばず安直なものを望む人がかなりたくさんあるが、これは一考を要する問題だ。

 私は「初めから良い楽器を持て」とお奨めする。しかし良い楽器といっても贅沢なものを指していうのではない、いたずらに象牙などをゴテゴテと張り付けたり金銀をむやみに使ってー それも芸術的価値あるものならば見どころもあるが、そんなものは更になく、ただ職人の手間稼ぎや陳列棚のこけおどしのごとき価格ばかり高いものを指して言うのではない。音色の良い、かつ弾きやすい及び人前へ出しても気恥ずかしくないものをいうのである。

楽器を大切に
 経験上初めから良い楽器を持っているといつでも良い楽器を持っていないと我慢ができない。それだけ耳が肥えるのである。言い換えればそれだけ趣味性が向上したのである、鑑賞力が深くなったのである。
 初めからつまらない楽器を持つのは既に楽器に対する愛情心また尊敬心がないものである。仮にあったところでそれは金を出したということによって大して粗末にしないという程度である。それすらその人の富の程度によってあるいは育ち如何によっては大切にしなくなる。こうした楽器を粗末にするのは良くない。
 薩摩琵琶界に於ける最大欠点は楽器を大切にしないことである。士における武器と同じ考えでなければならないのにさに非ずして、これを粗末にするに至っては唖然とするしかない。手入れなども怠りないように、もし自分にできなければ出来る人に頼めば良い。

楽器の貸し借り
 これら楽器を粗末にする心がけからして、琵琶会場にて楽器の貸し借りをするようになる。私はこれを実に苦々しく思っている。
会場で楽器借用をやる人を私はこのような種類に区別している。

一、技術も頭も共に神様の域に達した人
二、全然下手でわけの分からない人
三、芸術的良心に欠けた人、芸術観の無い人、他人の迷惑を顧みない人、至って図々しいずぼらな人

以上の種類に区別できる、そこで

(一)に掲げたる「技術も頭も共に神様の域に達したる人」これは口で言っても実際において絶対に存在しない。
(二)に掲げたる「全然下手でわけの分からない人」これは在る。しかしこれについてこんなことを言う人がある。
「私はまだ下手で、琵琶の手入れなどできないから誰かのを借りる」と。しかし実際によく手入れした琵琶を貸す人はまああるまいと思う。貸してくれるならばその人も未だ琵琶の手入れのよくできない人である。けれどもあるいは借りる人よりも少しは手入れが行き届いているかもしれないが、それも「少しは」という言葉を冠する程度で、要するに五十歩百歩である。

 しかし別にまた曰う人あり、すなわち

「あの人は私より上手である、だから自分の琵琶を貸してやれば使うときに手入れしてくれるから好都合だし、もし手入れをしてくれなくても別に(ぞんざいに扱って)痛めもしないだろう」

というのである。しかし、これに対しても私は一義(※1)ある。他人の楽器を借りて演ずるような人に、満足な手入れの出来る人は絶無であると言っても過言ではない。手入れの出来るくらいの腕のある人ならば、借り物で満足できるものではない。また借りる人は使用の際にちょっとした応急的な姑息な手入れはしても決して本当の手入れはしない、そんな手入れが何になるだろう。そして会場において泥縄的に手入れをしたところで完全な手入れを出来ないのは論ずるまでもない。また会場で楽器を借りてる人で使用後に弦を新しく換えて、更に手入れをして返すような真面目な人は私は未だ見たことがないし、聞いたこともない。それほど他人の楽器を借りる人は不真面目な人が多いのである。

 それから「別に痛めもしない」というが決してそうではなく、確かに”痛む”のである、ただその程度がいろいろあるだけである。言者の言うところの「別に痛めもしない」の人は、半月を叩き割ったりする程のケレン屋でもあるまいし、そんなところで撥を使うほどの無知でもなかろうし、また覆手へ撥の頭を打ち付けるほどの未熟者でもないだろう。ただしこれらは楽器の形の上における痛める痛めないの問題であって、音の上からいうと弦も痛む。しかし弦は取り替えれば済むがそれにしても取り替えたばかりの弦は弾奏中に伸縮があって未熟なうちはなかなか弾きこなせない、そしてサエ(さわり)が潰れる。またその人の弾く癖によって使用後特に柱がきしついて弦の締め方がうまくいかない、それも直ぐに手入れの出来るのと出来ないのとがある。こうした点を考えると、痛めないなどと言ってはいられない。
 しかも私の知っているのに相当な人と知られた先生が、弟子の琵琶も撥も借りて半月をけし飛ばし、その上撥を折った人があった、これらは無体もはなはだしいと思った。

(三)に掲げたる「芸術的良心の欠けた人、あるいは芸術観の無い人、または他人の迷惑を顧みないエゴイスティックな人及び図々しいズボラな人」、この部類の人は一番困りものである。第一会場へ来て

「僕は琵琶を持たずに来たんだが誰か貸してくれないかなァ」

この言葉を聞いただけで、何というさもしい奴だと思えてくる。ことにそれが女流琵琶師である場合一層この感を深くする。
 こういう人は他人の迷惑を少しも考えない、つまり思いやりのない自分勝手な人である。少しは他人の身になって考えたら良さそうに思うが、そんなことは考えずに「堅苦しいことは抜きにして、誰かので間に合わせれば良い」と統制も節度も皆一切踏みつけて、かえってこれが親しみがあると思ってるに至っては言語道断である。そして係る人は芸術に対して良心だの観念がないのだ。

 序にちょっと言うが、近頃は琵琶という楽器のことを「弾法」という人がある。弾法とは弾く方法のことである、つまり弾き方である。弾法といっても楽器を指していう意味にはならない。それをば楽器のことを「だんぱう」だの「だんぽう」だのと言っていると物笑いになる。

※1) 一義(いちぎ) ひとつの意味、こだわり

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