[琵琶読本] 某会を聴くの記(上)

 これは私の門下の研究資料として書いたもので公開すべき性質のものではないけれども一般にも研究資料になると思って特に記載する訳だが弾奏者に敬意を表して名前を出さないことにした。

国家と飯の例え
 琵琶を聞きながらこんなことを思った。
 飯は三つの年から今もって永年の間食い通してきたが未だに飽きない、飽きないどころかこれが無くては一日の我慢もおぼつかない。
 煙草の止められないのは病的だが飯の方はそうではなく、健康体であればあるほど余計に欲しい、実に美味い、噛みしめるほど味が出る。これが美味くなくなったら人生の終焉だ。

 しかしながら同じ飯でもうんと柔らかくし、まるでお粥のおじさんくらいに炊くと美味くない、糊のようでは尚更不味い。さりとて硬すぎても不味い、要するにほどよく炊かなければ美味くない。水加減、火加減、これが上手にやれれば上等の飯が出来る。そしてほどよく炊いた飯の感じがこれまた格別気持ちが良い。一粒々々が舌で区別ができてそしてその区別のできるもの同士の間に粘りがあってそれによって連絡を保っている。これが一粒一粒区別のできない糊の化合物たるものであったなら如何にねばりがあっても感じ悪い。反対に硬い一方のは一粒一粒区別は出来てもねばりはないからやはり快くない。半煮えに至っては議会における灰色議員に等しく不愉快極まるものである。そこで私はいつも飯を食う時に「国家はかくの如く上出来のでなければならない」と思う。ところが琵琶歌もまたその通りである。

 琵琶歌でも初めから終わりまであらゆる撥音全部に力が入って粘り気のないのは硬い飯のようだし、さりとて力のないものは軟いグチャグチャ飯のようだし、それならといって力を入れないほうが良いところへむやみやたらと力を入れてここと思うところをただ唱歌のように演じてはまるで出来損ないの飯に等しい。要するに一句一句聞き分けてもものになっておらず、そして全体に渡って粘りも締まりもなく上等の歌ではない。

 上出来の飯は一粒一粒ものになっていて茶碗一杯でも、飯櫃一杯でも皆連絡が取れている。そして数とは言わず「量」といい、更に「質」を尊ぶ。
 上出来の国家は上出来の個人個人の結合である。そして国家という容器の中の重量を言い、更にその質によって良不良が決定される。
こんなことを考えていると
「この時われは三百のぉ死傷をを怒る突貫はーーッ」
と九連城の崩れがガーッと耳へ飛び込んできた、弾法はAという青年である。
 死傷で思い出した軍人に麻酔剤をかけると大概は夢中で号令をかけるそうだ、しかし夢中の号令では兵隊を動かせない。信念によってかけた号令でなければ兵隊は決して動かせるものではない。信念があるから精神が籠もる。それで生きた人間を機械の如くに動かし得るんだ。夢中の号令は狂人の号令と同じである蘆原将軍の号令で動くものは松澤村に少し計りいるだけである。
なんでもかんでも吼えている。
もう崩れも済んで
「九連城も入り合いの」
というところだ。変に感じたのは感じたのはここで琵琶を入れた事だ、その後の句が
「空も心も晴れ渡り」
というのである。同じ事ならここであっさり琵琶を入れれば良かったと思った。

腹具合が悪い
 ふとこんな事を考えた
 夕方に家の近所まで帰ってきて、傍らの石に腰を掛けて昼から持ち越しの弁当を食ったとする。昼の弁当を昼に食わずに無理に我慢して夕方まで延ばしてその上に、もう一歩で愉快に暖かい飯が食えるのを妙なところで変な時間に喰ったもんだ。それが為に帰宅しても飯が食いたくない。しかしせっかく膳拵えが出来ているので義理で喰ったがそのために腹具合が変になった。

飯は見るのも嫌
 やはり区切りは区切りとして尊重すべきものだ。これがなければ有形にも無形にも感じが悪くなる。既に感じが悪くなってからは飯は見るのも嫌だろう。少なくとも腹具合の治るまでは不愉快だ。

 こんな事を考えているうちに「吟変わり」も済んで
「衆心一致城より堅く」
とやっている。

無形の表情
 また考える。
 日本には踊りという芸がある。外国にもダンスというのがあるがあれは大嫌いだから知ろうとしない。
 踊り手は無言である、そして表情ばかりである。歌の方はほとんど飾りのみに重きを置いている。あるいは文句にも注意しているだろうがそれにしたところで文句三分に節七分または四分六というところだ。その節に重きを置いた欠点をこの踊りによって充分に補っている。仮に文句も充分に注意しているとしても、この踊りによって錦上更に花を添える感がある。表情の力は実にたいしたもんだ。ここを考えてくれる人は極少ない。琵琶歌にも表情が必要だといえば、かの有形の表情を無形の表情へと移し替えねばならぬのにそこまで考えずに直にスタイルに表すから困る。
「衆心一致に」もっと内的の表情が欲しかった。

 突として拍手が起こった、見ると
「台湾入り B」
である。
チャチャン チャンギンチャン、と謡いだしの手が始まる。まだ場内がザワザワしている。歌い出しの手が終わる頃には場内も追々静かになってきた。
「皇の」
 また考える。
 三月の人形は優しいものだ、あれに金太郎の持つ鉞(まさかり)を持たせたって適合が悪い。それならといって金太郎におひな様の着物を着せても合うまい。やはり相応にせねばならない。

形は末のもの
 人間は形を論じない、形はそもそも末のものだ。主たるところは観念である。観念が確乎していれば自然と形は確乎してくる。しかるに観念が確乎していないのに形だけを確乎させても中身がぐらついているから駄目である。実質からいえば少しも確乎していないのである。しかしそれを無理にごまかしてもこれを高所から見下すとその衒気が見え透いて浅ましくなる。「皇の」意味の分からない人ならばともかく、Bはもっと教育のある人である。それだけに一層残念に思う、なぜ「皇の」の意味をハッキリさせなかったのか。

二つの耳は一つの用途
「君が御代こそ目出度けれ」
切りの手が始まる。
「どうも すっかり御無沙汰しまして……」
Sさんが傍らから話しかけてくる。
「なにしろ1月からまた頭を悪くしましてね……諸君はおいででしょうね……」
 咄弁なSさんが合いの手に煙草をふかせながらぽつりぽつりと話しかける。
 耳は二つ持っているが一方で琵琶を聴いて一方でSさんの話を聞く訳にはいかない、自然と傍らに声のあるSさんの方で近づいていく、しかし頭の方からは「弾法を聴け」とばかりに号令がかかってくる。

昼に食うから昼飯夕方食うから夕飯
 突然!
「よーーッ」
と隣にいるX氏が野獣のような堂間声(※1)を張り上げた。見ると一生懸命にBの弾奏を見ている。台湾入りは今や崩れに入った、Sさんも私も弾奏者を注視する。
 琵琶の手がひとしきり済むと
「雨か霞か白雪の、降り注ぐが如くにて、砲煙暗く天を掩(おお)い」
と歌う、この次の句が「百雷均しく落つるに似たり」というのだからここで琵琶を入れれば区切りも感じもよく活きるのだが「天を掩い」で琵琶を入れた。
 昼飯は昼のもので、夕飯は夕方のものとばかばかしくなった。殊にBは私の友人であり、同じ学校で教育を受けた人であるだけにその無概念というのか、不注意というかとにかく彼の失敗が自分の事のように恥ずかしくかつ腹立たしかった。

※1) 堂間声(どうまごえ) 調子が外れた野獣のような品のない声

 この前にある落語家が
「この頃流行の琵琶というものは変なものでげすな「お前さんはそっち、私はこっち」といった風に琵琶と歌とが別々で、どうも私共のような人間には訳が分からない、殊にあの崩れとかいうものになると尚更分からない、「何とかで何とかで!」というとジャラジャラと琵琶が入る、それも少しならようがすがね、かなりそいつが長いときてるんで、さっぱり分からない。なんでも前の文句やなんかは忘れさせる為に弾くんだそうでげすな。世の中が進むにつれていろんなものが現れて来るもんでげして何でもありゃ脳病院のまわし者で、お客さん潟を健忘症にするためにやってるんだそうだから危のうございます。」
 と言ったことがあったが面白い事を言ったもんだ。皮肉にも受け取れるが聞きつけない人には確かに訳が分かるまい。聞き慣れた僕でさえよく分からないもの。

「某会を聴くの記(中)」へ続く

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