[最近琵琶発達史] 第八章 初代橘旭翁の苦心(4)

橘流装束と下賜織布の冠
 その御前演奏の前日、明日は東宮の御前で演奏するという、なにしろ空前の事とて一人で気を揉んだ金子子爵は旭翁を自邸に招いて「明日は殿下の御前に罷り出でなければならぬが羽織袴では俗人めいていかぬ、なにかこう上に着る法衣のようなものはないか」と訊いた。そんなことに無頓着な旭翁は、平素からなんの準備もあるはずがない。さあ困ったといろいろ考えた末、「先年栗田口宮に奉仕して参殿の折、水干(※1)のような装束を用いていた、それならば今しまってある。それを着用してはどうだろう」と言うと「とにかく一応持参してみよ」となったので早速旭翁はそれを着て金子子爵の検閲?を受けた。「結構結構、それでよい」という許しを得てから無事御前演奏を勤めた。東宮殿下すなわち今上陛下はそれをつくづくとご覧になって、「善い物を着ている。彼の服装を門下の者にも着用させてはどうか」と畏れ多き御諚(※2)を金子子爵に賜った。その後子爵はこの御諚の趣を旭翁に伝えたので、旭翁は感涙に咽びながら直ちに多少の考案を加えて今日の装束を制定した。これ橘式装束の起因でかたじけなくも今上陛下の御諚によるとは橘流の光栄これに勝るものがあろうか。

 その月の十五日には再び北白川宮殿下のお召しを蒙り、その時は小松宮殿下も御同列で御前演奏を勤めた。曲目は那須與市、潯陽江、楠公などであって、特にお望みによって般若心経と玄上の曲を奏した。北白川宮殿下は非常にご満足で記念として御紋章散らしの緞子地を下賜せられた。旭翁はその裂地で冠を作った。現今二代宗家の用いているのがすなわちそれである。

※1)水干(すいかん) 男子の平安装束の一種、女子も白拍子など用いる事がある
※2)御諚(ごじょう) 貴人、主君の言葉、仰せ

雅号由来 
 ある日三井家から招かれて三井倶楽部で琵琶弾奏することとなった。三井八郎右衛門君はじめ三井一家の首脳者を網羅した席上で旭翁は一段高いところからあのすごい目玉をギロリと光らせながら「エー弾奏する前に申し上げておくことがございます、ただ今私が着用しております装束は畏れ多くも東宮殿下の御諚により、これを着用して弾奏する事に致しております。また、頭に戴く冠は北白川宮殿下から賜ったものでございますから最敬礼を願います。」最敬礼の一語に特に力を込めてどなった時は旭翁の五体から後光が射したようで、さすがの一流紳士も思わず一斉に起立して敬礼をした。後日、三井八郎右衛門君は金子子爵に会って「筑前琵琶を聴いて最敬礼させられたのは生まれて初めてだ」と語られたそうであるが、そういうことは旭翁ならではであって、まさに旭翁の面目躍如たるところである。

 更にさらに旭翁が孜々(※3)としてまったく倦まざらずに(※4)二十年来苦心した結晶体である筑前琵琶が燦然(※5)たる光を放つときが来た。それは明治三十五年五月八日、かたじけなくも昭憲皇太后陛下の御前演奏である。これは旭翁その人の名誉は勿論、一千年来の橘家空前の光栄であると共に、斯道無上の栄誉である。これより先四月二十一日、時の皇后陛下より旧藩主黒田候に旭翁お召しとの大命が下り、そこでこれを金子子爵に伝えた。子爵は自分の息子が高位顕爵(※6)に昇ったかのごとく打ち悦び、同邸に宮内大臣田中子爵、黒田長成候、大原子爵、榎本子爵、香川皇宮大夫などを招いて下聞き(※7)のために扇の的、桜井駅、湖水渡、石童丸など数曲を演奏させた。

 どんな弾奏者でもそれぞれに領分すなわち得手不得手があって、戦争物が上手な人もあれば悲哀物を得意とする者もある。第一流の人になると、どちらをやっても聞く人を首肯(うなず)かせるだけの技量は示すとしても、やはり得意のものほどにはその妙味を発揮出来ないものである。しかるに旭翁は、その点に於いては実に偉いところがあって、そのどちらを演っても巧いものであった。彼のしわがれた声で歌中の人物を躍動させていた。とりわけ「石童丸」は親子の情愛を能く現し、旭翁の石童丸を聴いて涙を催さぬ者はなかった。なんでもないようでいて実は至極難しいものだ。なんら背景もなく、なんの仕草もなく、しっとりと自然に涙をそそるところはさすがに巧いと思わせた。こんな人は多くあるものではない、当日試演の結果、石童丸と桜井駅を御前演奏することに決まったのも偶然ではない。これをみても芸術的技量の卓越さがわかろうというものである。

 さて、金子子爵が昵懇者(※8)に語られた話によると、陛下には旭翁の桜井駅をお聴き召されて「汝父が志を継ぎ、再び菊水の旗を翻し、帝へ忠義を尽くしなば、これぞ親への孝行ぞ、いでや是れより故郷に帰りて、母にも此の由語り伝えよ」との一節に至り、勿体なくも玉顔にハンカチを当てさせ給うたとのことである。御便殿(※9)に入御ののち、金子子爵がご機嫌奉伺いに罷り出でた時、「面白いとも思ったが感じたのは結構であった」との仰せがあったと聞いた。また、その際弾奏した琵琶は東宮殿下の御前演奏に用いた「旭」の銘ある琵琶であったので、重ね重ねの光栄を永く記念するために、以来旭字をもって家宝となし、遂にその門下生に雅号として与えることとなった(それは大阪の大橋旭寿女史の宅で談合の結果、雅号に用いるようになったとは編者の大谷兄が大阪から帰っての土産話であった)。

 今日用いる雅号の由来はかくの如き尊い歴史を持っている。

※3)孜々(しし) 熱心に
※4)倦まざる(うず-まざる) いやにならずに
※5)燦然(さんぜん) キラキラと輝いていること
※6)顕爵(けんしゃく) 爵位
※7)下聞き(したぎき) 前もって聞いておくこと
※8)昵懇(じっこん) 親しくつきあうこと、懇意
※9)御便殿(ごびんでん) 皇族の休憩所、御在所

第八章 初代橘旭翁の苦心(4)橘流装束と下賜織布の冠〜雅号由来 おわり

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