薩摩琵琶の普及
斯くて薩摩琵琶は、
(一)明治10年冬、吉水錦翁が上京し、続いて西幸吉も上京し、この両人が明治14年5月9日、東京府下袖ヶ崎の島津邸で薩摩琵琶を天聴に達し、世に広く行われる気運を作ったこと。
(二)吉水、西の両人が薩摩琵琶の普及発展に努力を惜しまなかったこと。
(三)町風琵琶の山下利助、家弓熊介等がはやく上京し、その後明治32-3年頃であったか士風琵琶の平豊彦。那須祐直等が上京し。夫々薩摩琵琶の普及発展の為努力したこと。
(四)明治天皇が薩摩琵琶を愛好され御前演奏が度々行われたこと。
(五)琵琶の持つ道徳性が高く評価され、文部大臣森有礼が一般に普及させる為にこれを学校の教育に取り入れる準備をすすめたこと(森有礼は不孝暗殺されて、この事は取りやめになった)。
(六)アメリカの大統領グラントが来日して薩摩琵琶を聴き、讃辞を寄せたこと。
(七)東京には薩摩出身で、社会の支配階級に属する者が多く、是等の人々が後援したこと
等が主因となり、東京を始め全国的に遂年盛んになってきた。
琵琶会組織
吉水、西両人の御前演奏後、明治16年には須田綱幸、田中国治の両人が赤坂御所内なる萩の御茶屋に於いて御前演奏を行った。この時綱幸は、島津忠義自作の琵琶「竜吟」を忠義より賜って、これをもって弾奏したので、後年其子綱義によって「竜吟」に因んで『龍吟会』が組織された。明治31年に、四元義一が『精志会』を起こしたが、これが琵琶会団体の最初である。明治35年3月8日には、吉水錦翁を盟主に『錦水会』が組織され、小田錦虎、小田錦蛙。肥後錦獅、小田錦豹、戸田錦蟒、加藤錦鶴、橋本錦亀、岩見錦浦、小田原国尊(2代目錦翁)、小田(岡部)錦蝶、牧野錦光等の有力な門弟が所属した。
岡部錦蝶は田辺錦波と併称され、女流薩摩琵琶の草分けで、『玉秀流』の創始者大照秀子と共に著名である。
『錦水会』の「錦」の字は、錦翁の郷里にある錦江湾(鹿児島湾)の「錦」の字を冠したとのことである。また錦水会の会員に、動物名が多いものは各自色々な声で弾吟するので、誰やらが動物園のようだといったのが原因である。錦水会は、その頃芝区山内源宝院で演奏会を開き、次いで芝区西久保巴町不断院天徳寺にて、毎月8の日に例会を催した。これが東京に於ける琵琶演奏会の始めである。
日露戦争が勃発すると、琵琶は遽然(※1)として歓迎され、急激なる発展を示した。『錦水会』は、その後明治38年『帝国琵琶』と改称され、錦翁殁(明治43年2月6日)後は、小田原国尊が宗家を継ぎ二代目となった。
木上武次郎が伴彦四郎の遺風を継いで盛んに活躍したのは此の頃で、明治39年頃より4ー5年の間であったようだ。
※1)遽然(きょぜん)にわかに、突然
永田錦心
明治39年10月には、肥後錦獅の門より出て、後錦翁につき錦水会に入った永田錦心が独立して『一水会』を起こし、大正2年に「錦心流琵琶」と称し『錦心流』を創設し遂に薩摩琵琶界最大の勢力を占めるに至り、榎本芝水、石川萍水、田村滔水、田辺枯水、有坂秋水、丸山巴水、桃木耳水、松田静水、山口春水、福沢輝水、中沢錦水、大舘州水等の名手を輩出した。
錦心は、本名を武雄といい、幼少の頃より画才があって16歳のとき、『団々珍問』(※2)の漫画家田口米作の内弟子となり、武州と号して内国博覧会へ「那須与一」を出品して入賞した。19歳のとき師を失い、後寺崎広業に学び、大正4年以後屢々(※3)文展へ出品して入選した、琵琶は16の頃より趣味を覚え、松本玉浦の『一水会物の始め』によると、芝琴平町に家弓熊介が住んでいて、此の人の弾く琵琶が、つい近所にいた彼の耳に入ったのがそもそもの物の初めの皮切りで、後明治35年、彼が18歳(明治18年生まれ)のとき鞍小学校の同窓会で、平派の祖平豊彦の「石童丸」「兵六物語」の2曲を聴いて大いに感激して、ここに琵琶を志したとのことである。次いで明治38年秋に、高輪御殿で北白川宮照久王殿下の御前にて「涙の雨(上下二段)、橘大隊長。威海衛、別れの国家、城山」等を演奏したが爾後屡々御前演奏をやった。因みに『一水会』の名は、琵琶歌作者の高松春月の発案で「永」の文字を二分したものである。
※2)團團珍聞(まるまるちんもん)明治期に発行された漫画風刺雑誌
※3)屡々(しばしば)
正派琵琶
又平豊彦の門よりは彼の竹馬の友で明治、大正時代名手として名声を博した宮田秋堂が出ている。この外明治39年には肥後錦獅の弟子で、永田錦心と同門の薩摩弦風が、『絃友会』を組織し、牧野錦光が『二葉会』を組織した。錦光は大正四年に『二葉会』を『東京流』とし、同9年に『錦光流琵琶』と称した。
前掲『錦水会』等に対して別に『正派琵琶』があった、これは旧薩摩時代の正格を保つことを旨として、かく称するのであるが、西幸吉、木上武次郎、四元義一、藤井義次等はこの派であった。
吉村岳城
木上武次郎の門より出た吉村岳城も一派を起こし斯界に一大勢力を占めるに至った。彼は木上武次郎歿後の己の居室に、その肖像画を掲げて朝夕これを眺めて師を追慕していた。彼は早稲田大学の商科を出たが、商科とは縁の薄い詩人島崎藤村の門下となり、新体詩も作れば和歌も嗜み、琵琶歌も名篇佳作をものにした。西郷南州を崇拝して、『城山会』を組織し、その発展をはかった。また一刀流の剣法をよくし、日置流の弓術にも堪能で彫刻もやる等頗る多芸多能であった。
その他の会派
大正2年には安達芦光が、浅野長勲から琵琶銘「青雲」の染筆を貰ったのを記念に「青雲会」を起こし、同4年に『青雲流』の一派を樹立した。同6年には能勢鉄等が『正絃会』を組織し、薩摩琵琶に関する史実並びに歌詞の研究、講演の開催、歌曲の刊行、弾奏例会、大会の開催を実施する事にした。同15年には永田錦心の高弟榎本芝水の門より出た水藤錦穣(玉水)が、薩摩琵琶に改良を加えて『錦琵琶』なるものを案出し、自ら一流を開拓した。
薩摩琵琶は明治、大正時代には全盛を極め、昭和に入って漸次(※4)衰微の傾向を示し、主戦直後には他の邦楽と同様殆ど根絶の状態となったが、愛好者の熱心なる努力により漸次復興への道を辿りつつある。
(昭和36年 薩摩琵琶の項おわり)
※4)漸次(ぜんじ)次第に、だんだんと