筑前琵琶 その1

筑前琵琶のはじめ
薩摩琵琶が、島津家の保護の下に不変の伝統を維持してきたのに対して、筑前琵琶の方は、特に保護を受けるものもなく、室町時代以後漸次衰微の状態になり、盲僧は生活困窮の結果門付けをなし、漸く生活を維持し、甚しきに至っては殆ど乞食同然の状態にまで堕したものもあった。是等の盲僧によってなされた荒神琵琶は、進歩発展の要素なく衰頽堕落していた。この状態は、明治になって心あるものの奮起を促し、茲に筑前琵琶を興起せしめるに至った。明治年間の中期に至り橘智定(旭翁)と吉田竹子の二人の力によって、今日の筑前琵琶が生まれたのである。

橘智定(旭翁)
橘知定は、嘉永元年(1848年)福岡に生まれ、13歳の頃から琵琶を習い、晴眼者であるにもかかわらず盲僧琵琶の伝統を継いだ。明治23ー4年頃薩摩琵琶が東京に於いて盛行し、漸次全国的なものになろうとしているに反し、荒神琵琶は低調にして、堕落しているのを概して其の改良を思い立ち、明治25年頃、薩摩に入り薩摩琵琶の研究をした。『琵琶界(第一巻第三号大正12年)』所蔵の「橘智定の筑前琵琶を発明するまでの苦心談(追懐談)」で、智定は「今までの座頭琵琶ー崩れーあれが、ご存じの通りあんまり荒唐無稽で、法螺話や淫猥な下劣なものばかりを語るので改善したいと思って、実は久しく九州各地の琵琶を研究のために琵琶修養に出かけていって、ツイ此頃帰ったばかりである。
先ず最初に熊本に行った。此処の琵琶は福岡と大差なく、学ぶに足らぬので直に彼の薩摩琵琶で有名な薩摩へ行った。薩摩琵琶はなかなかたいしたもので、学ぶに甲斐あるものであった。其の弾奏法も思ったより難しくはなかった。併し弾奏法は一定の基準がないので最初は同じ曲を四度絃(いと)を唱(なら)すかと思えば、次には五度、またその次には六度というように、心まかせに弾じているので大に苦心したこともあった。語り口は大いに上品で、筑前の今までの座頭琵琶とは大いに異なっている。それで注意して研究してきた。それから大分にも行って筑後琵琶も研究した。肥後琵琶も筑後琵琶も筑前の座頭琵琶とは多少異なった処もある。それで各地の長所を取って在来の筑前の座頭琵琶に加味して、新しい筑前琵琶を工夫したいと思っている。今その研究中である」といっている。彼はその後も改良琵琶の完成の為、粉骨砕身あらゆる辛苦を嘗め、遂に筑前盲僧琵琶を基として、それに薩摩琵琶や三味線音楽を適当に加味した新音楽、筑前琵琶を作り出したのである。

吉田竹子
その後明治29年吉田竹子が上京して、筑前琵琶を東京に紹介し頗る好評を博した。『琵琶界(第三巻十二号「大正14年)』の「吉田竹子女史伝」によると「吉田竹子は明治4年六月、福岡の藩士栗山幽斎の独り娘として生まれ、家産も非常に裕福であったが、父はその翌月の七月に病にかかり、八月の初めに他界し。産褥中(※1)の母も悲観のあまり父の跡を追うて他界した。竹子は生後50日で急に両親を失い、孤児となった。そこで父の知人加藤善吉が、その遺産と共に竹子を引き取って養育した。
加藤善吉は、明治13年3月に偶々(※2)訪ねて来た悪友に誘われて博打の仲間に入ったのが動機となって家財全部を蕩尽(※3)して、堕落の淵に沈んでしまった。義母松子は遂に夫善吉と別れ竹子を連れて実家(吉田家)に帰った。竹子が吉田姓を名乗るのは、養母の実家に籍を移したからである。

その後養母松子は竹子を愛して、茶の湯、生け花、音曲の道など悉くこれを修めしめた。しかるに養父善吉は明治16年、竹子が13歳の時、養母より竹子を奪い、これを金に換えるために博多の花柳界に売ってしまった。僅かに年十三になったばかりの竹子は芸妓として、宴席に出るや、その美貌と美声と優れた技芸で忽ちに第一流の花形となり、まもなく博多の百万長者加野熊次郎(柴田旭栄女史の親類)に落籍された。それより加野は、この竹子をして充分に芸を学ばせようとして、明治18年には明清楽(※4)を修得するために長崎に留学させて、広東流と福州流との両派の支那楽を学ばせ、また明治22年には大阪に遊学せしめて八雲琴を学ばせたが、僅か百日でその奥義を極めた。翌23年には、九州各地に散在する琵琶楽を修めさせる等百般の遊芸に精進せしめた」とのことであるが、明治29年の上京は金子堅太郎の勧めによるもので、『琵琶界(第四巻第八号「大正15年)』の金子子爵の談話「筑前琵琶を天下に紹介したる由来記」による「日本橋区浜町の料亭岡田に宴会を催し、音曲に趣味を持つ福地源一郎、富永冬樹、大江卓、梅津精一及び大蔵喜八郎等の諸氏を招待して、その余興として当時斯道の名人と称せられた常磐津林中と、清元お葉の両人を呼び、格一曲の妙技を演ぜしめ、その終わりに竹子を紹介し、那須与一、小督の二曲を弾奏せしめた。其の席に参列した人々は頻りに之れを賞賛し、この如き優美な音曲が筑前の田舎にあるとは思わなかったといった。殊に林中、お葉の両人は、竹子の音声の優美と弾奏の巧妙とをほめ、とても我々は及ばない技芸だと言った。この一度の演奏で、竹子の筑前琵琶は諸方に宣伝され、予の友人は頻りに其の私邸に加野氏と竹子の両人を賓客として招待し、朝野の貴顕(※5)紳士淑女と同席して、竹子の筑前琵琶の弾奏を聞くに至り、初めて筑前琵琶の名声が都下に嘖々(※6)となった」とある。
竹子の琵琶は其の始め橘旭翁に手解きをうけ、それに自分の工夫、考案を加味したもので吉田流と称し其の門からは高峰筑風が出た。

竹子は後に伊藤博文の寵を受け、其の甚大なる支援庇護のもとに斯界において一大勢力を持つに至った。ところが竹子、加野の両人の滞京は僅か一ヶ月で、其の帰国後明治31年の春、旭翁が大志を抱いて上京したのである。

※1)産褥(さんじょく)妊婦がお産の際の寝床
※2)偶々(たまたま)
※3)蕩尽(とうじん)財産を湯水のように使い果たすこと
※4)明清楽(しんみんがく)明、清の時代に中国大陸から渡来した音曲
※5)貴顕(きけん)身分が高く名声があること
※6)嘖嘖(さくさく)評判をいいはやすこと

筑前琵琶 その2へ続く
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