錦琵琶の起因と永田錦心の鑑識 椎橋松亭

以下は琵琶新聞365号(昭和17年1月)の椎橋松亭氏によるコラム、楽器としての錦琵琶誕生前夜の回想録です。
※旧字を改め現代仮名遣いに直してあります。

水藤玉水 (大正15年1月)

大正十五年正月
門松が取れて琵琶のお稽古が始まった1月の初め、日曜日の奥義試験が終わって掃き清められた静かな玄関、ここ千駄ヶ谷は錦心流宗家永田錦心邸の午後である。格子戸がガラガラと明くと少女の声で、
「ごめん下さい、水藤玉水です、先生にお目にかかりにまいりました…」
大正15年頃の錦心は日曜日毎に午前中は、2-30人からの昇伝試験に多忙を極め、それが済むと二階の陽当たりの良い書斎で机に向かい琵琶道の改革を目論んで新音譜の研究に邁進していたのである。

玉水を膝元近くに迎えて来訪の意を訊くと、琵琶楽器の改造についての話で、その言う意見のすべてが、常日頃自分考案のものとことごとく一致するのみか、却って自分の考え以上の創案を述べるので天才的芸術力に富む少女にすっかり感嘆した。
「話はよく解った、知ってる通り錦心流の将来は楽器の改造にあるので、それが俺の行くべき道なのだ。けれど実を云えばコマを増やし弦を増して自由に指を上下することがどうも不器用なのだ。殊にこう繁忙では目的も理想も何も実現が容易でないと思っている。だから一切任すから其の完成の道に向かって進んでもらいたい。その代わりできるだけの指導はするから」
そうした事が、すべて錦琵琶を産み出す動機となり、また僅か十五歳の少女に総伝免状を与える動機ともなったのである。
その年の初夏、ついに永田錦心より「錦穰」という最高幹部最初の錦号を授与されますます責任の重大を痛感して宗家より賜りたる偉業の達成に向かって夜の目も眠らず研究を重ね行くのであった。
熱意に燃ゆる錦穰は、間もなく自分の考案ができて、改造した琵琶を携え永田錦心の前で試みに弾奏したところ錦心は膝を打って感心し、
「それだそれだ、ちょっと貸してごらん、それこんな手も弾けるよ」
などとたいした悦びで、錦という字の揮毫と共に”錦琵琶”と命名され、ここに初めて巨人永田錦心の魂が打ち込まれた新楽器が創案されたのである。

終わり

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