[肥後琵琶](上) 山鹿良之

以下は関西の琵琶機関誌”京絃”に昭和54年(京絃298−301号)に掲載された記事です、執筆者は村山道宣さん。その時その場所でしか聞けない貴重なインタビューが綴られており、ここに数回にわたり転載いたします。

肥後琵琶師の山鹿さん
まだ強い日差しの残る、夏も終わりになった或る日、私は熊本県の北端にあり、筑後平野にも程近い玉名郡南関町小原に住む琵琶師・山鹿良之さんを訪ねた。明治34年、同地の農家に生まれ、今年76歳(昭和54年当時)になる山鹿さんは私に修業時代の話や門弾きの折の話など数々の思い出話をしてくれた。 山鹿さんは22歳の時(大正11年)天草群本村の琵琶師、江崎初太郎の許に弟子入りし、琵琶や語り物を住み込みで習うようになった。師匠の初太郎さんは最初石屋をしていたそうである。そして、三池炭坑で縦抗堀をしていた時、ダイナマイトの爆発事故に合い失明し、その後肥後琵琶、玉川流の創始者である堀氏(芸名ー玉川教順)について琵琶を習い、琵琶師としての生活を営むようになったという。初太郎さんには山鹿さんの他、数人の弟子があった。修業は琵琶の弾法、継ぎに端歌を教わり、最後に段物を習った。琵琶は1年習っただけでそれから後は一人で練習した。段物を修得するには先ず外題※の文句を師匠の云う通り繰り返し空読みして憶え、次ぎに琵琶を入れて語ってみる。このようにして習い憶えた外題は「都合戦筑紫下り」、「菊池くずれ」。「更級武勇伝」、「餅酒合戦」などであった。山鹿さんは、師匠のもとで3年修業した後、郷里に戻って来た。以来、山鹿さんの琵琶師としての生活が始まることになるのである。

※外題)芝居・講談などの題名。

琵琶師への道
ところで、山鹿さんが琵琶師になったそもそものきっかけは、どのようなことだったのであろうか。私が尋ねると山鹿さんは当時のいきさつを話してくれた。
おとうさんは、目の不自由な山鹿さんのことが気がかりだったのであろう。「おれが元気なうちに自力で生活して行くための技術を身につけろよ。」といつも口癖のように云っていた。鍼灸者になることを勧める人もあったが、山鹿さんはその気になれなかった。「その時分までは鍼灸も現在のようには発展しちゃおらんし、村内に鍼灸をする者が一人おったけん、客が来らんでとですたい。鍼灸じゃ商売にならんもんじゃけん。」山鹿さんは浪花節語りになろうかなども云いだしたこともあった。するとおじいさんは「絶対だめばい!」と大声で山鹿さんを叱りつけた。浪花節語りになれば各地を巡行して廻らねばならず、互いに連絡を取り合うことも出来ない。万が一ことがあった時にはどうするんだ。とおじいさんは云うのであった。

けれども山鹿さんのおじいさんは浄瑠璃が大変好きであった。じいさんは門付けの浄瑠璃語りさんが来ると「うちに泊まんなはりまっせ」とと云っては浄瑠璃語りさんを引き止め、夜になると近所のじいさんばあさんを集めて浄瑠璃を聞いたものであった。その折りにはじいさんが、浄瑠璃語りさんの前座を勤めたこともあった。おじいさんは山鹿さんに「浪花節よりゃ浄瑠璃の方がよかばってんが、若かもんの好かんけんねえ!浄瑠璃語りになっても、これから先聞き手がなきゃどうにもならんばってん…。どうせなら琵琶ば習え。まだ間違いはなかけん。」と云って琵琶師になることを勧めたのであった。こうして山鹿さんは、琵琶師としての道を選んだのである。

この話の背景には、その当時熊本やその周辺で肥後琵琶が盛んであったということがあるであろうが、私にはもう一つ別なものがあるように思われるのである。肥後の琵琶師の間には琵琶を弾き、段物を語るといった芸の他に、盲人の人達が行う”釜祓い”や”わたまし”(家の新築の際に行われる固めの神事)と云った宗教的な諸行が伝統としてあったのである。「芸は廃れても祓いがある」というような想いが、おじいさんの頭の隅のどこかにあり、山鹿さんに琵琶師になる事を勧めたのではないだろうか。また、当時(大正末期)の熊本の農村に於いては、盲人にとって按摩や鍼灸者としての生活よりも、芸能者としての生活の方が、より身近であり容易だったのだろう。

山鹿さんは天草から帰った後、初太郎さんに習った外題が少なかったこともあり、同じ玉川流の琵琶師であった三池の森与一氏について1年ほど門弾きして歩いた。森氏からは「一の谷」「小敦盛」「あぜかけ姫」「俊徳丸」「小栗判官」「山中鹿之助身方集め」などを習った。その後山鹿さんは独りで門弾きして歩くようになるが、ここで山鹿さんが初めて独りで遠方に門弾きに行った折の話を紹介してみよう。

肥後琵琶(中)へ続く

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