[琵琶読本] 師を選べ

 「選」という字は、「己」という字を二つ並べてその下に「共」を書いて「辶」すなわち「道」と書いてある。
 「己」という字が二つあるのは「自分」と「他人」という意味であって複数なることを表現しているのである。そしてこの複数がひとつとなって、共に道を行くので「選」ということになっている。これがなければ選むという言葉も文字もなんら意義をなさないということになる。
 例えば議員を選挙する場合でも、自分の考えている事と一致した考えを持った人を挙げるので「選挙」ということになる。然るに「あの人は多年政界にある人だから」とか「世間に名が売れているから」とか、又は「何某氏の推薦だから投票する」などと肝心の政見も思想も分かろうとしないで、清き一票を投ずることは甚だしい間違いといわねばならない。
 それと同じく、自分の師を選ぶのに単に「名が売れているから」とか「人気があるから」とか、「古くから琵琶をやっているから」とか、あるいは「友人から進められたから」というような事のみをもって選ぶと、往々にして馬鹿な目にあうことがある。
けれどもそう深く考えずにフラフラと決めた自分の師匠が上乗の師であった人ははなはだ幸福な人であるが、こんな事は滅多にないもんだ。
 しかし「師を選べ」といえば「そんなことは小学生でも知っている」と豪語する人もあるだろうが「知っている」ということと「分かっている」ということにはだいぶん距離がある。その証拠には、知っていながらいざとなると、知っている通りに師を選べない人が実に甚だ多い。

師を選び損なう例
 私の知っている範囲では、師を選び損なう人、また選ぼうとしない人。あるいは故意に選び損なう人のあまりの多さに驚かされている。これはおそらく琵琶界のみならず他の社会でも同じだと思うが、その選び損なう人の一例を挙げると。
「僕は初めて学ぶんだから、あんまり上等の先生に就くのはキマリが悪いから、手ほどきにつまらない先生に就いて、少し出来るようになってから更に上等の先生に就こう」というのがある。この種の人は割合に多い。既にこうした人達は初めから師を信じていないのであるからたとえ手ほどきであろうとも、信じない先生に就いてなにものを教授されようとするのだろう。いやしくも師に対して弟子は仰ぐべきである。しかるに初めからその観念のないのではものを教えられても覚えることのできるものではない。

正しい芸を目標に
 また大概の人は師を選ぶ場合に上手下手の品定めをする。けれども私は賛成できない。その選び出された先生が上手であろうと下手であろうとその点は決して構わないとまでは言えないが、そうした事は第二の問題である。私の第一に取りたいのは、その先生の芸は正しいものであるのか、正しくないものであるかである。私はこの点を先生選びの問題の主眼とするものである。
 たとえ下手な先生であってもその人の芸が正しければ、その人の芸を習得して後、さらにより好き刺激を受ければ必ず上達するに決まっている。「師の半芸に云々」の古人の言葉を打ち破ることは容易な業であると信じている
 けれどももし選ばれた先生が芸術的良心に欠陥があったり、又は芸に悪い癖があったり、または順を追って組織的に教える事の出来ない先生であった場合は、いかにその先生が芸は上手であっても、弟子になった人は甚だしい損害を被るものである。
 私があえて諸君にお奨めするのは正しい芸をやる人、つまり芸術的良心のある先生を選んで欲しいことである。そうした先生を選べば本人は正しい芸を伝授され、また芸術的良心を強くする善感化を受ける結果となる。
 芸術的良心の希薄な、あるいは全くそんなものを持ち合わせていない先生には、人間として最も尊ぶべき節義も向上心もない。随て欲情には知って低級なる欲望を満たすべく迎合妥協、必ず横に敷歩して善良なる人間の演出する芸に背馳するものになり下がってくる。だから看板や宣伝にうっかり乗せられてはいけない。そんなものは風体で、要は中身に注意せねばならない。

インチキ正派
 次に世間で「正派々々」というが、正派とは輿論(世論)が付けたもので、自分から名乗った人はなかったのだが、後に平豊彦氏の一派が輿論の付けた正派なるものの中へみずから正派を名乗って割り込んできた。そこで輿論は今までの正派のことを「純正派」と云いだした。然るにその後、平一派が誰もいなくなったので、純正派なる名を止して再び正派という名に立ち返った。まあしかし、現在の人達が称していう処の正派なるものは、大体において正派の事と思えば間違いない(中には随分人を喰ったのもあるが)。ところがこの正派にもかなりインチキなのがある。そうしたものを聴いた例は私のみでなく、他にも随分多く持ち合いしている人があると信ずる。私の知っている例を挙げると、私はある所で正派を名乗る先生と同席した。ところがなるほどその先生の持っている楽器はまさに薩摩琵琶であったが、芸は薩摩琵琶のほのかな匂いが遠くの方で幽かにするばかり、錦心流ともつかず、チョボクレとも付かず、一種はなはだ奇妙なものであった。そして御当人は「私のはチャンポンでしてね」と頭を掻きながら妙な弁明?を聴衆に対してではなく、楽屋に煙草をふかしている私に向かって述べた。
 流儀は各人の好き好きでそれぞれ自分の人格の求めるところへ行けば良いのだから錦心流へ行くのも良し、筑前琵琶に行くのも良し、正派へ行くのも皆勝手であるが、誰その流儀としての正しいと信じたものを選べばよかろうと思う。けれども大所高所より見下して、果たしていずれが正しいかは自ずから別問題である。この点は後段の諸章を味読されれば釈然たるものがあると思う。

癖のある先生
 さてその次は芸に癖のある先生であるが、この「癖」というものは甚だ困りもので、その先生に癖があると、弟子もその癖にかぶれて妙なものができる。
 先生なるものは、弟子に悪い癖がある場合には、これを矯正する役目をもっている。然るに先生の方でちょっとお先へ癖を振り回されてはたまったもんじゃない。
 元来癖なるものは至って偏狭なものである。だから癖にかぶれると芸の上達が阻止されてしまう。故に他の人の芸の長所を取り入れて、更に自分の芸を上達せしめることができなくなる。これらのことからしても、芸は癖のないのを上乗とする。癖がなければ上達は容易である。檄剣でも太刀筋のよい人には決して癖がない。だが、じっと考えてみると癖で固まっている人は原因が二つあるように思われる。その一つは充分に技術を習得していない為に無理なやり方や、ごまかし的なことをする。それからもう一つは精神的な訓練の足りないのが原因である。

ケタはずれ
 関西の某所に私の友人で琵琶狂の長者が一人いる。この人はなかなか筋の良い芸をやる人であったが、先年久しぶりに訪問して一曲を所望した。ところが歌も奇妙なものになっていたが、第一琵琶がけた外れの音がしている。こんなはずではなかったがと、よく見ると撥使いがまるで外道だったので、そのわけを尋ねた、すると「実はご存じの通り、前は「A」先生に就いていたが、このところに居なくなったので当分は師に離れて困っていた折から、偶然東京から「B」先生が来たので早速教えを受けた。然るに「B先生」は撥の持ち方を今のように教えたので、そんなものかと思って使い難いのを我慢して、やっと近頃は馴れたところだ」と云った。ところがそのB先生なる者は、私のよく知っている人で、その人の芸の生い立ちままた良く知っているが、要するに正しい芸を習得した人ではなく、まあ悪く云えば田舎や東京の場末でいい加減な事をしている宣伝で通っている風体ばかりの先生であった。そしていつもケタはずれの芸をやっていたが、ケタはずれは決して未熟さを補うものではない。ケタはずれは何処までもケタはずれとして存在している。しかし素人は分からない。そこをつけ込んで癖だらけの芸を伝授する。考えてみれば罪な話だ。

ツボ狙い
 それから、すべて芸は「ツボ狙い」をすると下落する。もっともツボ狙いをする心持ちが既に水平線以下のものではあるが、その心持ちを助長するのツボ狙いであり、ツボ狙いが芸を下落させるんだから、いわば雛と卵とでも云える。
 例えば武器のうちで最も古雅な弓術でも、「当て弓」と「当たり弓」との二種類ある。当て弓とはツボ狙いである。あたかも芸をやる者が人気さえ取れれば良い。金さえ儲かれば良い。芸はどんな風になっても、世の中に如何に害毒を流しても構わないというのと同じく、的に当たりさえすればよろしい、他のことは什麼(※1)でもよいというやり方である。これには必ず下劣な癖がある。さてまた、当たり弓というのは無の心で当てるのである。つまり七則を完全に心で踏んで、換言すれば心身を調えて、そして無の心で放つ。それが極めて自然に的へポツリッと命中する。この場合当てるのではなく当たるのである。この場合芸で云えば「生命を目的として、生活の伴うべきものと等しい。これにはいささかも癖がない。昔は武士を抱える場合に弓を引かして、その武士の人格を試したそうだが真に故あるかなだ。他はいざ知らず、琵琶界に於いてはこのツボ狙いをするのは要するに大向こうの拍手喝采を欲して阿諛迎合(※2)的な弾奏をするのである。何が何でも構わない、恥も外聞も、薩摩琵琶の精神も気品も皆踏み破って自分自身の人間的価値まで下げて、ただ幇間的に弾奏するというやり方である。
 すべて至高なる芸は、衆人をして尊敬して集らしめる。しかし決して当方から迎合して行かない。このパッシブとアクティブの距離足るや甚だしいものがある。これだけ述べれば賢明なる諸君は思い半に過ぎるものがあろうと信じる。

※1) 什麼(いんも) 如何様、どんなになっても良いの意
※2) 阿諛迎合(あゆげいごう) 相手に気に入られるために己を曲げておもねりへつらう事

 次に野卑な芸、柔弱な芸、である。
薩摩琵琶では野卑すなわち下品なものと、柔弱つまりデレデレした女の腐ったようなのは最も嫌うのである。
 それから組織的に教える事の出来ない先生に就くと習うのに甚だ骨が折れる。そしてその骨折が無駄に終わることが甚だ多い場合もある。けれどもこれは習う弟子の頭の働き如何によって調和されないものでもないが、ここに一番困るのは自己流で固めた先生である。それについてこんな話がある。

自己流
 ある高等学校の先生が「禅学なんてものはなにもわざわざ師に就かずとも本を読めば分かる。現代は種々な本があるからありがたいもんだ」と大いばりで禅書を購入して読み始めた。ところが書中に作麼生(そもさん)という字が甚だ多く出てくる。それをある人に向かって曰く。「おい君、そのサクモセイという奴はなかなか理屈っぽい奴だね」とやったんで大笑いされた。ソモサンをサクモセイと読むようでは他は推して知るべしである。これと等しい間違いが自己流の先生には多々あるもんだ。
 ただし一番最初に琵琶をやった人、つまり創始者は誰の教えも受けなかったんだから自分も独りでやるという意気甚だ盛んな人もあると思うが、その我古(われいにしえ)をなすの心は分かっているが、さてそんな人達ので未だ満足なのは聴いたことがない。口では立派なことを述べてはいるが実際は鑑賞力の幼稚な、あるいは低級ないわゆる大衆なるものの人気を目標に捏造したものである。あるいは立派なものもあるだろうが、不幸にして私は未だ聴かない。ただ野卑下劣醜悪実に嘔吐を催す如きもののみであった。

余計な手数余計な骨折り
 師の選択を誤った人も追々頭が進み、分別も出来てくると「これではいけない、本格のものを習得しよう」と気が付いて他へ稽古に行くとさあ難しい。元の癖が出て邪魔になる。骨が折れるので意志の弱い人は途中で止してしまう。
 実際骨が折れるに違いないことは西も東も同じで、私の友人にAというアメリカ生まれのイタリア人がいた。彼はヴァイオリンの名手で、この男は他で習った人には月謝を倍額取る。そのわけを尋ねたら「他で習った者は他の先生の癖がある。それで教えるという以外に癖直しという余計な手数を要するから倍額取る」と云った。この説明を聞いた時、なるほど西洋人は物質的だと思ったが、しかし考えてみると教えるのにそれだけ骨が折れる以上は、教えられる方でもそれと同程度の骨が折れるに決まっている。少なくとも癖直しという余計な骨折りはせねばなるまい。

古いので幅が利くのは梅干しばかり
 本格のものと習い替えをする場合に、前に習ったのが何の役にも立たない場合が多い。それはこういう点だとはっきりした説明は音声のものだけに筆や口では現せないが、この場合「せっかく骨折って習ったのが役に立たないでは惜しい」となかなか捨てない人もある。ましてそれが不幸にして琵琶になんら理解のない人や、又は低級な人から賞賛 ………というのもおかしいが、まあそんな風でもあると、すっかり喜んで無二の珍宝と心得て決して手放さない。したがって本格のものを教えられてもなかなか覚えない。
 中には「こんなに難しくてはやりきれない、前のだって相当骨を折って習ったんだから棄ててしまうのはもったいない、いっそのこと前ので我慢しておこう」などと誠に奇妙な貧弱な満足をして終わるものがある。そのうちに後輩に凌駕されて憤慨し、そのあげくが煩悶(※3)して遂に琵琶はつまらないと勝手な悲鳴を遠くの方で内々に揚げてわずかに自己を慰めている人もある。またそうした悲鳴をあげないで琵琶界から去らない程度でいる人は、そのままブラブラ蠢動しているうちに理屈っぽさと年数は相当進むが、肝心の芸の方は二の町どころか今までほどに刺激を受けないからかえって退歩する。それでも「俺は古いんだ」と威張る。まるで梅干しのごときものができる。

※3) 煩悶(はんもん) 苦しみもだえる事

白紙に返れ
 不幸にして癖にかぶれた人でも自分の観念次第でこれを矯正することは容易である。それは元の白紙に戻ればよいのである。例えば三味線を習っている人が今「春雨」を教わり、次に「夕暮」を教わると仮定する。その時に前に習った「春雨」の癖が出て困る話はいまだ聞いたことがない。これは「春雨」と「夕暮」とは全然別個のものであることを強く意識して、新しい気持ちで習うからである。つまり白紙になって習うからである。
 何事によらず初めてものごとを教わるにはいかなる先生に就いて習っても相当骨の折れるものだ。同じ骨を折るのなら、初めから佳き師に就いた方がいかに幸福であるかは考える余地がないくらい明らかな事だ。

師を選ぶときの自分
 師を選ぶには琵琶会またはその他の機会に種々な弾奏家の芸を聴くのが一番近道である。その時は前に述べたる薩摩琵琶の歴史をよく呑み込んで、そして自分というものの腰を据えて冷静に聞く必要がある。決して惚れた耳で聞いてはいけない。というのが、この際の自分は聴いて楽しむのが目的ではなく、弾奏に現れたる長所、短所、悪い癖の有無、学力の程度の観察、歌中の事柄や表現力の有無、言い換えれば歌を活かす力の有無である。それから巧拙、気品如何、姿勢の善悪、等々を調べるのが目的なんだから決して情に走ってはいけない。例えばちょっと声が良いとか節曲が艶っぽいとかすると直ぐ惚れ込んだり、あるいは要領使いの弾奏のごとき、または撥に衒気(※4)満々たるものなどに出くわすと直ぐにごまかされやすい。

※4) 衒気(げんき) 自分の才能・学識などを見せびらかし、自慢したがる気持ち

上乗の芸
 薩摩琵琶は興味を必要とする。しかし興味本位ではない。目的を品位の向上に置き、これを人々が面白く接し得るように興味を添えてあるのだ。この点をよく注意していただきたい。だから興味のないのは完全に落第である。同時に興味ばかりで品位の向上、精神の振興という方向に欠けたものもまた落第である。
 一番上乗の先生は
上品で元気があり、軽妙なれども悪達者でなく、壯重(※5)なれども鈍重でなく、歌中の人物や事柄をよく表現し得、撥音の明快な。姿勢の良い。楽器を粗末にしない。歌詞をでまかせに歌わない。譜付けの上手な、常に古くない絃を用いている。冴えのある楽器を持っている。熱のある(悲しい歌でも勇ましい歌でも皆それぞれ自らの熱がある)。衒はない。癖のない。亡国的ではない。
以上が揃っていれば満点である。声の善し悪しや高い低いなどは芸の条件には入らない。

※5) 壯重(そうちょう) おごそかで立派なさま

     ○

汝成功を望まば、不撓(※6)を親友とし、経験を良類問とし、戒心を阿兄とし、希望を守護心とせよ (エジソン)
※6) 不撓(ふとう) どのような困難にあっても屈しないこと。 またそのさま
     ○

風をのぞむ者は種蒔くこと能わず (英国諺)

※1) 什麼(いんも) 如何様、どんなになっても良いの意
※2) 阿諛迎合(あゆげいごう) 相手に気に入られるために己を曲げておもねりへつらう事
※3) 煩悶(はんもん) 苦しみもだえる事
※4) 衒気(げんき) 自分の才能・学識などを見せびらかし、自慢したがる気持ち
※5) 壯重(そうちょう) おごそかで立派なさま
※6) 不撓(ふとう) どのような困難にあっても屈しないこと。 またそのさま

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