薩摩琵琶の歴史の梗概 薩摩論語

赤十字思想
 こうした美談佳談は沢山ある。例えば木崎原の戦などでも敵の大将の子供を引き取って一人前に仕立ててやったのや、その他枚挙にいとまないからいちいち述べる繁を避けるが、唯一ここで述べたいのは、赤十字ということである。赤十字思想なるものは西洋人だけのもので、日本人はその真似をしていると解釈している軽薄才士や、日本人でありながら日本国民性に対する認識不足のオッチョコチョイが多いから述べたまでである。またそうした赤十字的行為は楠正行にもあった、上杉謙信にもあった。その他等々々々。
 家の鯛汁より隣の糠味噌汁という言葉があるが、これは親や師匠のありがたみが分からず、他人の御座なりや、巧言令色に心奪われたり、人のものはよく見える馬鹿野郎を罵った比喩である。これを大きくすれば、日本の長所美点がが分からず、また日本をよくすることをしないで、西洋に盲従する方々才士を罵詈(※1)する意味である
 余談に入り込んだことをお詫びする

※1)罵詈(ばり) 口汚くののしること

子弟教育
 さて、日新斎は他に臣下の子弟や、忠死者の孤児を大勢教養した。そしてその子供たちの日課は、毎日晨天(※2しんてん)に起床して沐浴をすますと観音経を誦読(※3しょうどく)する。それから前日の復習をして後、次の学課を教わるという順序で、その間猛烈なる武術の練習をさせた。もし怠るものがあると鉄拳、棒などで張り倒したそうだ。今の社会教育事業や、学校やそうしたものと比べると大きな差がある。もっとも時勢ということもあるが、しかし今のどの内閣のやり方でも時勢に順序しているのではなく、時勢に引き摺まわされているのだ。この意味に於いて、政治家は一人もいない。皆被政治家である。
 日新斎は、時分の看経所の壁に、新納忠元、川上久元。肝付兼盛、鎌田政年の四人の名を貼り付けて、毎日その四人の武運長久を祈願したが、あるとき側近のものに「国に良士なければ国久しからず、この四人は年こそ若いが確かに見処があるから国家のために武運長久を願っている」と漏らしたそうだ。
 感激性のない下等動物とか、恩に馴れる匹夫下郎ならいざ知らず。普通の人間ならなこうされては発憤勉励せざるを得まい、況してや見処のある四人になるに於いておやである。果たして四人は島津家の柱石となり、殊に忠元などは知勇兼備の豪傑として宇内に驍名をとどろかした。かの一世の英雄豊臣秀吉は忠元のことを大指(おおゆび)武蔵と言った。蓋し大指とは、第一に指を屈するという意味である。(忠元は長じて新納武蔵守忠元といった。かの琵琶歌形見桜の三段に、新納武蔵守忠元は、文武二道に達し、和歌の道にも長じたる身なりしが云々)とある、あの武蔵守のことである。

※2)晨天(しんてん) 夜明け、朝早いこと
※3)誦読(しょうどく) 声に出して読むこと

士の風儀
 それから、戦国時代のみならず、一般武芸者の弊(※4へい)を戒めて、諸侍禁制のことというを発表している。

一、額上を荒燕し
一、口内を濺(そそ)がず
一、爪上を研がず
一、座中の起居閾を履み
※敷居を踏むこと
一、御門の出入り謹まず
一、戯笑言語し
一、威儀澹如たらざる
※威厳がなく落ち着きがない
侍は出仕停止のこと。

 殊更に豪傑を衒って垢面蓬頭、放逸粗暴、横紙破りを以て男であるかの如くに心得ているものにはちと痛い話である。

※4)弊(へい) 良くない習慣

立国策を明示す
 当時島津領の経済状態は、すこぶる悲観すべきものであった。そこで日新斎は、この戦争だらけの中、領民や武士の教育に多忙な中、その他々々の中に、経済の立て直しもせねばならなかった。
 そこで現代の政治家や役人さん達ならば、俗吏(※5ぞくり)のその場逃れの報告書や見当違いの意見を土台に、人気取り政策や、新聞社買収に浮き身ををやつすカタカナまじりの後名案の陳列という処なんだがわが日新斎はすこぶる明快に鉄安を下した。それは農業立国であった。

※5)俗吏(ぞくり) つまらない事務を行う役人

愛人撫民
 それから、その忙しい中、油断も隙もない中を都合して、領内を巡視し、その領民を慰め(断って置くが下に々々で威張って仕事を邪魔しに歩いたのではない慰問に歩いたのである)、そして荒廃の地には自領から民を移住せしめて共に荒撫地を耕作させ、更に武士をして農業に従事せしめた。今その子貴久に遣わした手紙に、

諸士衆中、番狩、普請その他役務めの間日には唯居致さず、主家の子女までも早朝より農業に出つべきこと。但し地頭領主に免許を受けず其所をはづし出て候はば死罪たるべし。

と書いてあるが、実にたいした力の入れ方である。
 時代だか時勢だか、そんな小理屈は私はどうでもよい。ただカフェがハエが湧くほどに殖え、ネオンライトの毒々しい姿が街を我が物顔に振る舞い、紫色に廃れた腐肉の上に安おしろいを塗り固めた売女然たる女が、蓄音機のジャズに合わせて支那そばやのチャルメラのような声を出して歌う? のを視て、発展したとか復興の帝都とか云ったり、それが地方にまで伸びて純朴なお百姓さんがグータラになり、青年や娘達が段々悪びれして、親のありがたみすら分からない人間が盛んに殖えるだけならまだしも、親不孝者が幅を利かすようになり、尊い農業に従事する誇りを放棄して、清浄なる山水をつまらないと云うほどに自然に対する感謝の念が無くなり、醜悪そのものの如き都会の塵に吸い込まれて行くことを好況だと喜び、安政時代に江戸に小料理屋が増えて幕府の侍共が急激に堕落し、更に安政小唄によって一層拍車をかけて脆弱不真面目の淵へ堕落していったことに対して何らの批判も加えない政治家と、日新斎とを比較して、人間はこうも段があるのかと驚くの外ない。
 いったい現代の政治か(私に云わしめれば被政治家だが)現時の日本の経済の立て直しは何を以て進むというのか、一般国民にハッキリさせていない。経済のみならず、何に限らず、日本はこの立前で進むのだ! と明確に旗印を押し立てた政治家は一人も居ないではないか。ただ現れた問題に対してセンチメンタルな寝言や、重箱の隅をつつくような小役人じみた小理屈を並べて、言葉だけは大げさなことを言い立てて結局何が何だか各自の統一の無いことをしているのに過ぎないのではないか。いや話がえらく脱線して申し訳ない………… 多謝々々。
 日新斎の農業立国がよいか、良くないかは別として明らかに、これで進む! と方向を表示し、それを行う為に徹底的に努力する点は実に心強い。

親分学
 こうして立国のピントを農業に置いたが、一方に日新斎は自分は勿論、一般に向かって奢侈(※6しゃし)を巖に戒めた。そして自分の生活を切り詰めて孤独者を慰め、不幸な者を振るわした。これは口では容易いことだが実際は中々出来ない事だ。これの出来る人は立派な親分である。大抵は自分は贅沢して、人に対しては極めて薄く、そして施してやったと親分面する奴が多いのだ。これでは有り難たがらない。感激がない。実際日新斎の行いは親分学の粋であると思う。
 もう一つ、ということで例を挙げてみると、あるとき唐船が立派な贈物を齎したが、その善美なるを見て、さも苦々しげに眼を閉じ、眉をひそめて、亡国の斧斤、迷心の(●※7)毒なりと横を向いたそうだ。ところが、普通一般の偉い人も、質素倹約を叫び、自力更生を強調されるが、ご自分のことは金殿玉棲に棲むべし、贅沢はすべしである。これでは他の人達は何とも思わない。といってもわざわざ拵えた自分の質素倹約だけの自力更生ではやはり駄目だ。充分に修養して、極めて自然に無心に生活していて、それが直に質素倹約であり、自力更生であれば実に尊い。日新斎は拵えものでも、付け焼き刃でもなかった。領民の感激するのは当然である。

※6)奢侈(しゃし) 身分不相応、度を超えた贅沢なふるまい
※7)火へんに鳥。火の鳥のことか?

日新斎の孝心
 彼は七十七歳で死んだが、死の前二日が恰も忌日に相当したので、礼服を着用して御前具を捧げて礼拝したと記録されている。こうしたことは、口や筆では何でもないが、実行するとなると中々できることではない。
 こんな風だから不孝を悪むこと実に甚だしく、それらの者には極刑を以て臨んだ。一例を挙げると、田布施という処の庶民が父母と争ったので其者を断罪に処し、不孝の二字を額に烙印して晒したことがある。
 又同じ田布施の士が、親不孝の所為があったので、士分を剥奪して庶民となし、後に大赦があっても此の不孝者だけは赦さなかった。以て如何に親不孝を悪んだかが分かる。
 ちょっと考えると、漸に処した上に額に烙印をするなどは残酷だと思うかもしれないが、日新斎は決して残酷な人ではなかった。それは、当時の死刑には、牛割、串刺、張付などあったが、それをば彼は残酷なりとして之れを禁じ、死罪、流罪もまた緩くした。これによってもよく分かると思う。しかし、親不孝者に対してのみは断乎としてやっつけた。今時日新斎のような法官がいれば、それこそ死刑だらけだろうと思うが間違いか?…………

薩摩論語
 こうして直接に、間接に領内の子弟を教導したが、さらに当時の武士、その他の者の文教方面の欠点を補う為に、聖の教えを平易化して「いろは歌」というのを作った。これが有名な薩摩論語であって、之れを一般に普及させる為に領内の者に、士民を問わず強制的に誦読させ、寺子屋の習字の手本に用いしめた。今これを並べてみよう。

いにしへの道を聴きても唱えても我行にせすば甲斐なし
棲の上にもはにふの小屋も住む人のこころにこそは高きいやしき
はかなくも明日の命をたのむかな今日も今日もと学びをばせで
似たるこそ友としよけれ交わらば我にます人おとなしき人
仏心他にましまさず人よりも心に耻ちょ天地よく知る
下手ぞとてわれとゆるすな稽古たに積もらば塵もやまと言の葉
科ありて人をきるとも軽くすないかす刀もただ一つなりき
知恵能は身につきぬれど荷にならず人は重んじはずるものなり
理も法も立たぬ世ぞとてひき易き心の駒の行くに任すな
盗人はよそより入ると思ふかや耳目の門に戸ざしよくせよ
流通すと貴人や君が物語り初めてきける顔もちぞよき
小車のわが悪業にひかれてやつとむる道を憂しと見るらん
私を捨てて君にし向かわば恨も起り述懐もあり
学文はあしたのしほのひるまにも波のよるこそ猶しづかなれ
よし悪しき人の上にて身をみがけ友はかがみとなるものぞかし
たねとなる心の水にまかすば道よりほかに名も流れまじ
礼するは人にするかは人をまたさくるは人をさくるものかは
名を今に残し置きける人も人心も心何か劣らん
楽も苦も時過ぎぬれば跡もなし世に残る名をただ思ふべし
昔より道ならずして驕る身の天のせめにし逢わざるはなし
うかりける今の身こそは前の世と思へは今ぞ後の世ならん
亥に臥して寅には起くと夕霧の身を徒にあらせしがため
のがるまじ所をかねて思ひきれ時にいたりてすずしかるべし
おもほへずちがふものなり身の上のよくをはなれて義を守れ人
くるしくもすぐ道を行けつづら折りの末はくらまのさかさまの世ぞ
やはらぐとい怒るをいはば弓と筆鳥に二つの翅とをしれ
万能も一心とありつかふるに身はしたのむな思案堪忍
資不肖用ひすつるという人も必ずならば殊勝なるべし
不勢とて的を侮ることなかれ多勢を見てもおそるべからず
心こそいくさする身の命なれ揃ゆれば生きそろはねば死す
回向には我と人とをへだつなよ看経はよししてもせずとも
敵となる人こそは我師匠ぞと思ひかへして身をも嗜め
明らけき目もくれ竹のこの世より迷はばいかに後のやみ路は
酒も水ながれも酒となるぞかしただ情けあれ君が言の葉
聞くこともまた見ることも心からみな迷なりみな悟なり
弓を得てうしなふ事も大将の心一つの手をばはなれず
めぐりてはわが身にこそは仕へけれ先祖のまつり忠考の道
道にただ身をばすてんと思ひとれ必ず天の助けあるべし
醉へる世をさましもやらで盃に無明の酒を重ぬるはうし
独り身をあはれと思へ物ごとに民にはゆるす心もあるべし
もろもろの国やところの政道は人にまつよく教え習はせ
善にうつりもあやまれるをば改めよ義不義は生れつかぬものなり
少きを足れりとも知れ満ちぬれば月もほどなく十六夜の空

 以上述べただけでも日新斎は実に立派な領主であるが、しかしこれだけの偉さならば他にも類がある。そこで類いの無い点をこれから述べたい。

人材登用
 人材登用ということは、他国でも重要視したに違いないが、日新斎は素晴らしい英断を以て之れを実行した。
 先ずこうだ、領内の者で一芸一能あるものには下郎庶人といえども姓を授け士格に列して之れを登用し、学問を好む者には書籍を与え、武事を好む者には韜略(※8とうりゃく)兵法を教え、性に応じてその器をなさしめた。
 こうしたことは何でもないようだが、いざとなると下劣な、貧弱な感情が手伝ってなかなか出来る事ではなさそうだ。
 それから、もう一つはいよいよ本題の主要部分の琵琶である。

※8)韜略(とうりゃく) 戦略

政治は総合芸術
 いうまでもなく政治は総合芸術である。全てが有機的に働かなければ決して効果はない。日新斎はそれが為に有能の者を重用したが、この点は現代の政治家の如く不純一な、頭も腹もない、一方も偏した出来損ないではなかった。単に孔孟の道や、刑罰のみで人心を美化しようとはしなかった。もし孔孟の道や、刑罰のみで人心を美化できると思っていたらば日新斎も普通の殿様で終わり、かつ島津家も今日まで続かなかったに相違ないと信じる。
 今日の日本では、精神の向上に大童である。曰く何とか強化団体、曰く何とか団体、曰く何とか訓辞と、仕事に手を付けた記録だけの事では一生懸命だが、さて一方に映書がある、何とか小唄がある。これらの前に何とか強化団体や、何とか訓辞なるものが如何ほどの権威があるだろう。
 やく四百年前に日新斎は民衆娯楽にはチャーンと思慮分別を持っていた。すなわち彼は音楽や舞踊に着眼して、先ずそれへ手を染めた。
 一方で堅苦しい教えや制度で放縦な人間に統制心を與え、別に娯楽を与えたが、これとても近代の如き低級な、かつ幼稚なものではなかった。必ず娯楽のうちに精神の向上を計った。

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