[最近琵琶発達史] 第六章 錦心永田君と一水会(1)

 私は冒頭第一に錦心流の特色を挙げて誤りを伝える者の蒙を啓きたい(※1)と思っていた。しかるに葛生君の書いた「錦心流の特色」という一文を手にしたからここに転載する。曰く

錦心流の特色
「我が錦心流の琵琶界に於けるや、藍より出でて藍よりも青く*、而して更に一層の清新の色彩を加えたるなり。純薩派の弾奏家はこれを呼んで外道という。外道の名は敢えて辞するところに非ず、純薩よりすれば全く外道に近きものなり。我が錦心流の発祥地は東京なり、その創始者は純粋の江戸っ子永田錦心氏なり。江戸っ子にして薩人に擬(※2)し薩音を学び薩人の気風を擬せんと欲するのかたきは、薩人の江戸っ子に擬するの難きが如し。故に永田氏は薩摩琵琶という楽器を偽り、みだりに他の覊束(※3)を受けざる芸術の抱負を、自在に天下に伸ばさんとするなり。故に他の掣肘牽制(※4)を受けざるは固よりのことに属す。古今東西天才の事を為す者皆然り、豈に(※5)世の毀誉を顧みるの怯(※6)にして能くする所ならんや。翻って錦心流の特色を具体的に謂えば、その形式に於いては従来の薩曲の単調を破りて、綿密豊富に為したること是なり。その内容に於いては歌詞中の人格精神を歌絃の間に活躍せしむるに重きを置くこと是なり。此の点は従来の弾奏家も毫(※7)も思いを致さざるところなり。然れども刻下我が屯二千の子弟は宗家の深意たる内容精神を謡い出すことを務めずして、その形式たる曲節のみ模することとする者多きは真に痛歎(※8)に堪えず、斯くの如き輩は錦心流の特色を眼識するの明なきものと謂う可きなり」
とすこぶる簡単に失するがやや錦心流の特色を叙し得たと言えよう。

*)[青は藍より出でて藍より青し] 中国荀子のことわざ、弟子が師匠の学識や技量を超え更に高みにあがることのたとえ

※1)蒙を啓く(もうをひらく) 知識や道理に暗い者を教え導くこと
※2)擬(ぎ) 本物でないものが)真似をする、模する、もどき
※3)覊束(きそく) 強制してしばりつなぐこと
※4)掣肘牽制(せいちゅう-けんせい) 掣肘も牽制も相手を束縛して自由にさせないの意
※5)豈に(あ-に) なぜ、どうして
※6)怯(きょう) おじける、ひるむ、勇気のない、臆病
※7)毫(ごう) 極めてわずかな
※8)痛歎(つうたん) 痛いほど嘆かわしいこと

天の才
 しかしながら「我が屯二千の子弟は、宗家の深意たる内容精神を謡い出す事を務めずして」というのはすこし当たらない。なぜならば永田君は真の天才である。そして創始者であって、かなり楽才のある者でも容易にその塁を触れえるものではないと思う。すなわち務めるも及ばないのである。私は比々皆然りといいたい。別言すれば、真の天才がそう容易く雨後の筍のようにニョキニョキと出はしないだろう。それは葛生君ばかりでなく、当の永田君にしてもおそらく歯がゆく思っているであろう。そしてまた永田君の偉大なる所以であるといわねばならない。ただその形式である曲節をのみ模するを以て良しとする凡庸の士も少なくないであろう。

 さて、名家評伝中に永田君のことを約2頁にわたって書いてあるが、しかしそれは全く皮相(※9)の観察に過ぎないであろう感がしてならない。まして一水会の陣容などに対してはさっぱり触れていないといっていい。それで本編には出来るだけ書いてみようと思う。

肥後錦獅翁所感
 まず永田君の先師である肥後錦獅君は曰く
「永田君は斯道に対して実に熱心であった、そして先見の明のあったことは敬服に堪えない。私のところへ頭を低うしてたしか五回か来られた。それは乱暴な時代であり、且つ異を立てるものであるといわれていた当時だけに私は極力断ったのである、もう教えないと言っては追い返したものだ。然るに断っても断ってもやって来る。それで私は根負けして教えたのである。教えたといっても今のように歌詞、弾法などと区別していちいち手を取るようにして教えるのではない、ただ弾いて聞かせるだけだった。思うに私の秘曲石童丸のうちに、他の真似の出来ない節があるのでそれをとりに来たのであろう。また永田君が故吉水錦翁に師事したというがそんなはずはない。それは錦翁の弾奏を聞いて得るところがあったであろう。まあそんなものでひとり苦心の末あれだけの芸術を創造したのであるから全く偉いよ」と。

葛生桂雨師の所感
さて葛生桂雨君の説を聞く。桂雨君はいう
「私は永田師と交友十年になるが、その構想における卓見(※10)には驚き入っている。いわゆる無音の詩で美のなかに心を打ち込んで美しい情を発揮させる。そこに他の企てで及ばない偉大さがある。多くのありふれた琵琶歌には紋切形のように 屹度(※11)教訓的言葉を現わに挿んである、それを永田師は喜ばない。そしていちいち指摘されるのであるが私はその都度家に帰って三思してみる、なるほど美化してゆくのが芸術家の任である以上これこれせよというふうに教育者を真似るには及ばない。そしてそれはやがて芸術家としての天分を自ら低うするものであると考えさせられた。芸術の美妙の極致?、それはまったく永田師ならでは現し得ない感がする。じっと眼を瞑って永田師の弾奏を聴いていると内容着色共にまざまざと活躍する。よくいうおしろい着けた弁慶などは決して出てこない。ハッキリと人物人物の個性が浮かんで来るのである。美しい尽心が歌の上にありありと滲み出て来るのである。
 
 特に芸術に対する永田師の熱心さに感激したのは永田師の厳父が亡くなられた際、僧侶の唱える読経に和して南無阿弥陀仏と低声で繰り返されたを思うと丁度隣席に座した私の膝を丁と叩いて「これだこれだ」と囁かれた。これはいうまでまでもなく琵琶歌での南無阿弥陀仏の節に苦心されていたのである。厳父の死に面しながらよくかくの如き研究的態度に出ることは到底凡人のなし得ないところであろう」と、

※9)皮相(ひそう) 表面、うわべ、上っ面
※10)卓見(たっけん) ものごとを正しく見通す優れた意見、見識
※11)屹度(きっと) 確信して強くうながすこと

山口春水師の所感
 それから私の近所に住む総伝山口(錦堂)春水君曰く
「水号者が何千人になったというて騒ぎ廻る人が多いが私は永田師の芸術はそれらのものを超越していると思う」
と、要するに永田君は偉大なる芸術家であるというに一致している。そして山口君は水号者が何千人出来ようと永田師の芸術には及ばないというが、しかし私は斯界に於ける革命児としての永田君の功績すなわち一水会の陣容をその機関誌「四弦」を通して瞥見(※12)しようと思う。なぜならば第一世橘旭翁の偉業と共に斯界を縦断するところの二大潮流だからである。

※12)瞥見(べっけん) ちらりと見ること

第六章 錦心永田君と一水会(1)錦心流の特色 おわり

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