[最近琵琶発達史] 第六章 錦心永田君と一水会(2)

一水会物の始め
 松本玉浦という人の書いた「一水会物の始め」を読んでみると一水会の歴史がほぼわかる。
 芝琴平町に故家弓熊介翁が住んでいた、この人の弾く琵琶がつい近所にいた永田君の耳に入ったのがそもそもの物の始めの皮切りで、後の明治三十五年永田君が十八歳の時に鞆小学校の同窓会で平派の祖平豊彦君の石童丸と兵六物語の二曲を聴いて、今の言葉で言えば大いに感激してここに琵琶に志したのだという。そして早速肥後錦獅君(当時赤坂丹後町に住んでいた)の許に馳せて教えを乞うたが、ほんの一-二ヶ月位しか就かずあとは独学したので錦水会に入っても故吉水錦翁からは一度も習ったことがないそうである。そもそも一水会の出来上がったのは明治三十九年十月十一日で丁度今から十七年前になるが、この”一水会”と名付けたのは永田君の「永」の字を二分したので、これは琵琶歌作歌たる高松春月君の発案である。その後錦心流と呼ぶようになったのは明治を過ぎて大正に入ってからで、当時栗崎吟水君が売り出して「小錦心小錦心」などと呼ばれた時分から自ずと錦心流と称せられるようになったのである。

 その一水会創立当時の「一水会同人」の顔ぶれを挙げてみると、山本錦園、内田錦泉、牧野錦光、佐脇錦橋、板倉厚積、松浦延芳、土屋新次、吉田錦蘆、小川松水、網代萩水の諸君であるが面白い事にはこの同人が三つの系統に分かれていることである。土屋、小川、網代の三君が永田君の直門系で、山本、内田、牧野、吉田の四君が宮春系(これは宮春岩次郎翁という正派の大家に習ったから)である。もっとも牧野君は錦水会系であってかつ宮春系であった。それに牧野君が一水会同人であったということは私にとって初耳である。

 話は前後するが永田君が最初に教えた人は親友の土屋繁雄君であった。それは確か明治三十六年すなわち永田君が十九歳の折である。越えて明治三十八年の秋には高輪御殿で北白川宮照久殿下の御前にて”涙の雨”の上下二段を立派に演奏した。しかも五曲続けての弾奏で、そのうち橘大隊長、威海術、別れの国家の三曲はお望みによってであった。あと一曲の”城山”は松浦延芳君が弾奏したのである。宮殿下や佐々木候から少なからずお賞めのお言葉を賜って二人は面目を施した。その中でも「西よかうまい」と仰せられた候の御言葉には二人は天にも上る心地がしたという。永田君が宮殿下の御前で弾奏したのは実にこれが最初であった。この事は松浦君の叙述によったのであるが、一水会創立前に既に尋常一様の少年弾奏手でなかったことが窺い知れるであろう。

 一水会一番始めの稽古場は芝区西久保巴町七十九に置かれた。桜川町の本部から南へ約三丁天徳寺の付近で当時の家は今では取り払われて無いが、その発会式に寄って来た重なる人々は吉田錦蘆、高松春月、宮田秋堂、佐藤筑水(当時水号にあらず)、松裏延芳、土屋繁雄、福島夫人(後に花水)、上林八重子(後に荷水)の諸君で皆一曲ずつ謡った。なかにも永田君は武蔵野を、宮田君は松囃しを弾奏した。その他の人々は端歌をやってのけた。宮田君は評伝中に書いたように正派の大家で永田君とは鞆小学校の同窓の友である。また佐藤筑水は非常に親切な男で事務会計のすべてを扱ったが惜しいことに昨年(大正十年)亡くなった。

 真っ先に代稽古をしたのは吉田錦蘆君であった。吉田君が辞めてから永田君の令弟永田真治君や大畑墨水君や石川萍水君などが交々(※1)その衝に当たった。しかし代稽古と改まった名称の下に教えだしたのは石川萍水君が最初であったという。石川君が代稽古を退いたのちの代稽古の人々を順に記すと田村滔水、有坂秋水、田辺枯水(のち蘇川と改号して北斗会を起こし現に旺んでいる)、酒井幽水、田中芳水、大川綾水(田中大川の両君は一緒に代稽古した)、松田静水、再び石川萍水、飯田滴水、再び松田静水(飯田、松田の諸君も一緒に代稽古した)、石田鶴水、故高橋鵬水、山口春水の諸君である。最も期間の長かったのは石田君の三ヶ年であろう。
 代稽古の称を師範代と改めたのは高橋君である。殿(※2)は山口君で大正七年春から八年十二月まで教えた。これ以降は一切本部では教えないということになったのである。

※1)交々(こもごも) 代わる代わる
※2)殿(しんがり) 最後、最後尾

初例会と初水号者
 一水会例会の始めは明治三十九年四月頃、土橋際の加賀屋(貸席)で初声を揚げた。下足蒲団お茶付きで入場料金五銭という今から思えば嘘のような話である。一水会としてはすなわち永田君主催としては大会はあまり数多くやらなかったが、その第一回大会は忘れもしない明治四十二年の春四月三日で、会場は神田の和強楽堂であった。入場料は金二十銭で盛んなものであった。その大会で初めて水号を出した。曰く石川萍水、曰く大畑墨水、曰く榎本芝水、曰く有秋坂水、曰く佐藤筑水、曰く福島花水、曰く上林荷水の七人が一度に水号を与えられ、そのうち始めの四人が大会に出演したのである。この四人のうち石川君は北海道で斯道開拓の任に衝っており、有坂君は目下前橋市にて教授せられ、大畑君は不孝にも不帰の客となった。そして榎本君のみが東京で活躍しているのである。

 その最初の水号七人の時に初めて水号免状を作ったが、今の免状とは大分異なっている。紙は奉書を用い大きさは今の初伝免状の半分くらい、書き方は「許 何某殿、呈す、何水、年月日、一水会」という風でまだ印判を用いずすなわち無落款であった。その次に出した免状には「一水会」の替わりに「永田錦心」と署名し永田君が書の方で用いていた「櫻水」の印を押した。今の「会長の印」は錦心流宗家を名乗ってから作ったものである。福島夫人と上林八重子嬢の二人が女流の弟子として最も古くまた女流水号者としても一番最初であって今の水号一覧表に福島花水、上林荷水とあるのがすなわちこの二人である。

雅号”一”号
 一水会では水号候補者として「一」の字を出した。これは七*人の水号が出てからずっと後に考えたもので、だから七*人の水号はいきなりもらったのである。今のように初伝とか中伝とかの格付けはなかったのであった。
 この「一」の字は今の中伝資格にあたるが当時水号はよほどの技量がなくてはもらえず、当時の「一」の字所有者は技量の優れた人が多かった。到底今の中伝とは比べものにならなかったのである。また当時は試験制度で水号を出すという規定がなかったから水号になるには勢いこの「一」の字をもらわねばならず、従って「一」の字は水号候補として尊まれもし、また幅を利かせたものである。なんでも北海道で死んだ野村湖水君などが最初に「一」の字をもらったと思う。すなわち野村君は「一星」と号したのである。

*編者註)原文では四人

第六章 錦心永田君と一水会(2)一水会物の始め-前編- おわり

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