[最近琵琶発達史] 第七章 永田君の所感を引いて(3)

未来への展望
 永田君は、この対策として「私の望むところの一例を挙げればまず事件の進行とか、史実の興味とかを度外視し、例えば月ならば月、春ならば春、秋ならば秋といった一事物の感じを歌と弾法によって如実に描き出すというような事も一つの方法だと思う。それについて学ぶべきは西洋音楽であって、それを巧みに取り入れ、琵琶の特質と調和させたならば、一つには琵琶を音楽として世界化させ、かつ滅びようとする琵琶に新しい生命を与え得るだろうと思う」と述べている。

 西洋音楽を取り入れてゆくことは至極妙であろう、「しかし琵琶界の人々で洋楽に着目し、かつ完全に理解し得る人ははなはだ稀であって、これを取り入れるはおろか『まるで解らぬ』という人が多数である。そしてお召しの着物をぞろりと着流し、読むものは講談倶楽部(※1)という有様であるからまったく腹立たしいくらいである。結局芸術の道は孤独である。一人一人の信じる方向へ志す以外仕方がない、そう思えば私はたまらなく寂しい心地がする。演奏者がかくの通りであるから聴く人に多くを求めるのは不合理かもしれないが、知名(※2)の士の家に招かれる場合に於いて、落語家か幇間(※3)かのように芸人扱いされ、憤慨せずにいられないような事がしばしばある、席を蹴って帰る事さえあって今ではほとんどそんな方向を断るようにしている。かえって金のない小学校などに請われて行って心からの歓待を受け、非常に愉快な気持ちで思わず数曲演奏する事がある。物質をむげに卑しめる次第ではないが、いやしくも芸術に携わる者としての誇りだけは失いたくないものである。」とは真に芸術家らしい感懐(※4)である。

※1)講談倶楽部(こうだんくらぶ) 大正から昭和37年まで刊行されていた講談社の大衆雑誌
※2)知名(ちめい) 名前が知れ渡っていること、有名
※3)幇間(ほうかん) 人にへつらって気に入られようとする者、太鼓持ち
※4)感懐(かんかい) ある事柄に対する思い

 繰り返して言うようであるが、前半の演奏者云々は少し酷過ぎはしまいか、講談倶楽部を読み得る程度の人々で斯界は満たされているようにとれるが、私はそれほどには思われない。それは九百余りの名家評伝を通読しても判るだろう。しかし比較的学力程度の低い人々の多いことは否定することのできない事実であって、それは私も失望を感じた一人である。ただ各々研究に熱心なうえに新人がドシドシ斯道に馳せ参じるのを見て私は衷心(※5)より悦(よろこ)んでいる。また、落語家や幇間のように芸人扱いされることは実に心外であろう。だがこれも一つには世間に琵琶の真価を知られていないからで、社会の先覚である新聞雑誌記者すら理解している者は極めて少ない有様である。であるから知名の士といえども非礼に及ぶ場合もあるだろう。ここにおいて私は門人を多く作るということよりも、まず広く琵琶の真価を知られるように徹底的対外方策を講ずるのが急務であると思う。これについて私にもいろいろ意見があるが、到底小紙面を以てしても成すべくもないから単に警告に留めておく。

 最後に永田君は「あらゆる点よりみて、かくの如き現状を一新して、確固たる道を築く事はもとより容易ではない。この際に於いて作歌にも演奏にも独自の手腕を備えた大天才が、奇跡的に現れるような事でもあって欲しいものである。それを期待せずにいられない程、現在の琵琶界が行き詰まっている事を私は痛感するのである。」と結んでいる。要するに徹頭徹尾(※6)悲観論である。だがしかし一大警鐘として推称(※7)する価値は十分で、同時に私の意するところもほぼ述べたつもりである。

※5)衷心(ちゅうしん) 心の底、本心
※6)徹頭徹尾(てっとうてつび) 最初から最後まで
※7)推称(すいしょう) ある人物の事柄等を、他の人に向かって賞め称えること

第七章 永田君の所感を引いて(3)未来への展望 おわり

「第七章 永田君の所感を引いて(2)錦心宗家の懸念」に戻る
「第八章 初代橘旭翁の苦心(1)」に進む

最近琵琶発達史 目次へ

Posted in 最近琵琶発達史

コメントは受け付けていません。