筑前琵琶 その2

智定(旭翁)の上京
此の動機について頗る古典的な話がある。それは「三日続けて朝日が昇るところを排する夢を見た。ハテ妙なこともあるものだ。朝日が昇る方は東である。予て上京したい希望に悶えているから斯かる夢を見るのであろう、俗にいう神のお告げで神人感応の神秘的予兆かもしれないと、自問自答の結果上京を決意し、携うるところの琵琶の名称を『旭』と名付けた」というのである。彼は上京後、同郷の誼で金子堅太郎子爵、浜地八郎、頭山満等から多大の後援を得てここに東京に於ける筑前琵琶の普及発展のため、竹子の後を受け本格的に努力奮闘した。前掲『琵琶界 第四巻第八号(大正15年)』の金子子爵の談話「筑前琵琶を天下に紹介したる由来記」には「加野、お竹の帰県後、橘智定も亦た上京して予が邸に来たり、東京にて筑前琵琶の弾奏を試みんと相談したりに依り、一夕智定を招き、其の演奏を記機たるに。琵琶は流石宗家の事なれば、遙かにお竹に優れたけれども、其の音調はお竹に及ばず、況んや其の語り物は古来の「崩れ」の文句音調にて野卑なるものなれば、とても東京の人士には聞かしむること能わざりき。依って同県の友人浜地八郎氏に相談して、其の文句を改良せしめ、屡々都会の紳士淑女等に聞かしてめて宜しからんと認むるに至り、又復諸方の友人を招き智定を紹介したり。此の時は既にお竹に依り筑前琵琶は東京に知られたることなれば、智定も亦た各所より招待せられ、又弟子となりて之れが伝習を受けんと申し込むもの陸続(※1)し来たれば、智定は余が一番町の邸宅の向側に一戸を借り入れ。筑前琵琶指南所の表札を掲げて之れが宣伝に力めたり」とあるが、彼は偶々明治32年1月、小松宮彰仁親王の御前演奏にて。「これは何という琵琶か」との御下問を受け、初めて筑前琵琶と申す由を言上し、後、後援者金子堅太郎、頭山満に謀り正式に筑前琵琶の名を発表した。

※1)陸続(りくぞく)次々に連なるさま

水干装束と雅号
彼はさらに同年4月11日、葉山の御用邸に於いて、東宮殿下の御前演奏をしたが、この時彼は、金子子爵と前日相談しておいた、彼が先年栗田口宮に奉仕して参殿の折来ていた水干様の装束をして演奏した。東宮殿下は、この装束がお気に召して爾後(※2)この服を門下の者にも着用せしめてはどうか、との御諚(※3)があった。彼は大いに感激し、直ちに多少の考案を加えて今日の装束を制定したのである。次いで同月21日、彼は皇后陛下の御前演奏をしたがその際、先日東宮殿下御前演奏に用いた「旭」を以て家宝となし、遂に其の門下生に雅(号)として与うることとした。彼は一般家庭、婦人層、花柳界と視野を広くし、あらゆる方面に普及せしめむべく奮闘努力したので、彼の琵琶即ち橘流筑前琵琶は、各方面に愛好者を持つようになり東京を始め全国的に普及されるに至った。

※2)爾後(じご)それいらい
※3)御諚(ごじょう)貴人の命令、仰せ

後継者
彼は女流後継者として長女旭桜及び姪の秋根旭恵両人を見いだした。この両人は、前後して明治36−7年頃上京し、二代目旭翁等と代稽古の傍ら、芸の研鑽を積んだ。琵琶会を有楽座あたりで開演するようにしたのは旭恵の力によるところが大であった。大日本旭会は明治45年5月21日、大阪市梅田金竜館で創立せられた。当時は花柳界でも琵琶が盛んであって、同年大阪市の北新地や、南地、新町の芸妓連が琵琶大会を開いた。『琵琶界 第一巻第三号(大正12年)』所載「お座附琵琶歌(花柳の花)」に「花のちまたに咲く花の、八重に黄に赤に、とりどりなせる色や香や、只見るからに艶なれど、花の心を知る人もなし、伊達の姿の唄女が、宿夜のゑにしに絡れて、浮川竹に沈むべく、生まれ出でなむ約束の、あるべきものとてあらざれど、味気ねき世の習ひかや、つれなき波にもまれつつ、沈み行くこそ是非もなし、(中略)雪の肌に赤き血の、流れるからは唄女も、人の情けや世の義理に、絡れて泣く夜半もあり、恋の緒琴の高鳴りに、微妙の情けを味ひつつ。胸躍らする夕あり、などて誠のなかるべき、誠の囁き聞けよかし、(中略)四筋の糸に一筋の、はかなき露の命をば、繋ぐ哀れの身の上は、春雨に萌える若草の、夫れにも似たる心もて、雨をそそぐ人の世の、情けに生きるぞ願ひなれ。情けに生きるぞ願ひなれ」とあり。其の盛行の程を察知できる。

橘会ほか新たなる流れ
大正8年8月旭翁が歿したが、其の翌9年1月15日、橘旭宗は、斯界に独立を宣言し、旭会に対抗して新たに『大日本橘会』を組織し、全国に飛翼を伸ばし、勢力扶植に務めた。橘流筑前琵琶からは、安部旭洲、石村旭光(涼月)、水也田旭嶺(緑水)、橘旭桜、秋根旭恵、柴田旭堂(初代)、豊田旭穣、松岡旭岡、三好旭天、髙野旭嵐、高倉旭子、東原旭扇、山崎旭翠、平田旭舟、田中旭嶺等の名手が出ている。安部旭洲は、『八洲流』を名乗り、水也田旭嶺は、緑水と改号し『緑派』なる一派を創開し、続いて新基軸を出し、緑水斎呑洲と号して教育琵琶講談を作り、また石村旭光は、一時大阪の文楽に入って義太夫を研究していたが、涼月と改号し『石村流』なる一派を創設した。

※1)牢乎(ろうこ)しっかりとしてゆるぎないこと

吉田流その後と高峰筑風
橘流筑前琵琶は、かくの如く年々歳々に旭日昇天の勢いをもって牢乎(※1)として抜くべからざる幹根を四方に扶植しつつあるが、吉田竹子の『吉田流筑前琵琶』も勢い盛んにして竹子は瑞光と称し、大正7年には琵琶を携えて欧米を巡遊した。彼女の門より出た高峰筑風は鈴木徹郎といい、始め橘旭翁に改良琵琶を習い、後吉田竹子の門に入ったのである。彼は芸界に身を投じ、此の面からして琵琶の普及発展をはからんと努力したのである。明治40年6月、神田の青年会館に於ける筑風、吉田竹子、源千秋による「新派筑前琵琶大会」は、東都に於ける筑前琵琶大会の嚆矢(※2)であった。

※2)嚆矢(こうし)物事の始まりを伝える矢、さきがけ

而して
この外、橘旭翁と同じく、福岡に於ける盲僧琵琶の宗家であった鶴崎賢定は、露外と号し、初め旭翁に改良琵琶を学び、後自家伝来のものを加味して『鶴崎流筑前琵琶』を創始し『大日本露会』を組織した。筑前琵琶も沢山の流派が出来、明治、大正時代には熟れも盛えたが、昭和以降、薩摩琵琶同様衰退のきざしがみえ、橘流を除く他は漸次衰滅の道を辿り、今日では根絶の状態である。従って筑前琵琶といえば橘流が筑前琵琶を代表することになった。しかしこの橘流筑前琵琶も終戦後一時は全滅の域にまで追いやられたが、その後漸次復興し、第三代橘旭翁の出現はこれに拍車を掛け、今や大いに立ち直りをみせ、在米邦人の間にも盛行し、山元旭爽の如き名手も出、又米国人の中にも熱心な愛好者を数々出すに至った。
(昭和36年 筑前琵琶 おわり)

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