薩摩琵琶 初代吉水錦翁

吉水経和(錦翁)1845-1910

日本の近代琵琶のうち、西幸吉(1855-1931)と並んで薩摩琵琶の祖と並び称される琵琶界の大家、明治期に薩摩琵琶が帝都東京で流行するに至るきっかけを作り、門下門孫から多数後の琵琶界を牽引する人材を輩出した。また優れた作詞家でもありその著作多数。
鹿児島出身 本名経和
二代目錦翁(小田原国尊)は初代錦翁の養子である。

吉水錦翁略歴

妙寿風琵琶
吉水経和(錦翁)は薩摩藩士の家に生まれ、琵琶は14-17歳の頃に鹿児島藩士、郷田正之丞に教わる。郷田正之丞は町風の流れを汲む妙寿風の琵琶弾奏家で、当時は鹿児島全体に妙寿風の琵琶が流行していた。吉水はのちに中村四郎太からも歌謡を学んだ

初上京と御前演奏
明治3年翁26歳の時、経和は鹿児島藩校の造士館より東京へ遊学を命ぜられる、それより郷里に戻る明治10年西南の役収束までの8年間は琵琶を手元に置かず、役が鎮まったのでやっと鹿児島に帰った、彼は琵琶三昧を謳歌できると密かに喜んだが彼の琵琶(妙寿が愛用したもので撥面には桜花の蒔絵を附した有名な琵琶)は彼の不在中親戚の坂元勘助がそれを借りたまま西南戦争で戦死し、琵琶は行方不明になっていた、やむを得ず彼は小金商の助右衛門に頼んで別の琵琶を手に入れる、それが次ぎに述べる天皇皇后両陛下の御前演奏に使われた琵琶である。彼は明治15年5月、同じ鹿児島出身の西幸吉と共に明治天皇御前にて琵琶歌を供する最初の栄誉を得る。その後も皇族及び親王方の御前に於いて数々の弾奏をその琵琶ですることとなる。

西幸吉との研究会発足
その後西幸吉、小牧多一郎両氏と共に芝公園の八木信守の宅にて研究会を集会、間もなく神職の田中頼庸より日比谷大神宮広間の貸与をうけ同好会を開く、それは3-4年間続いた。

翁は官命を帯びて伊豆七島に出張し、巡回5-6ヶ月で帰京したが、其の時会は幹事と弾奏家との意見が合わず瓦解していた、翁は再び芝山内の弥生社を警視庁から借り受けて会を起こし、また2-3年継続することができたが、再び伊豆七島の巡回を命ぜられて出張して居るうちにこの会もまた瓦解するに至った。茲に於いて烏合の徒は到底再度し難きものと断念して、翁は自ら芝山内の源宝院を借り受けて二十余畳の広間に同志を集めて復讐を企て、のち源興院に移った。ときに明治25年頃のことである。

参加料は一人五銭
此の寺は広間三十余畳あって当時は会員一人五銭として、会員箱を座の真ん中に出して置いて、出金は随意に入れ否らざる者とて別に請求するでもなく、その人々の心に任し、茶と塩煎餅を会費の内より買った。無論冬期になれば火鉢を17-8個も出すので、会毎に煎餅代の幾分を自弁することになっていた。傍聴者の多くは知人であったが、知らぬ人も少なかった。

相次ぐ息女嗣子の夭折
この会を継続して行うちに娘の一人が病に冒され、日当たりの良い所に転居せよとの医師の注言で今の錦水会のある寺即ち不断院に至急転居したが、娘は終に帰らぬ客となり、続いて妹娘も8歳にして一夜の内に逝き、嗣子は二十歳にして又世を去った、その時より神谷町に引っ越したがこ内に息子息女に先立たれたので全く此の世に希望を失い、快々として楽しまず保険会社も7-8年にしてその地位を他人に譲り、全く閑散の生活を営む事となった。

転機 錦水会の結成
ある日他の用事があって不断院を訪ひ、住職に面会すると近来閑散の身となったを幸い家を貸すから琵琶会を起こしてはどうだと云われたので直ちに快諾し住職と約して小田錦蛙(為岩)氏に謀り、錦虎錦豹両氏を及び肥後錦獅氏等を誘いて錦水会を組織し、そのとき自らを錦翁と号した。即ち明治35年3月8日である(※註)。この時より8の日を開会日と定め毎月3回ずつ開くことになっている、今日まで尚ほ連続しているが、此の錦水会を起こした頃までは、琵琶を学ぶ者は頗る少数で橋本錦亀氏他3-4名に過ぎなかった。近頃のように盛んになったのは晩近4-5年のことで、また鹿児島よりは名手が上京して都鄙となく四絃の声を聞くようになったのは眞に喜ぶべき事である。而して翁の琵琶に全力を尽くすようになったのは錦水会の誕生以後であるが、現今翁の門を訪ふ人は35年3月以来殆ど一千余人の多きに達している。

※編者註) 小田錦豹、橋本錦亀、肥後錦獅共に錦号を名乗るのはこののち、明治36年1月です。詳細は別コラム[錦号者名簿]をご覧下さい。

帝国琵琶(明治42年)

西幸吉との確執と帝国琵琶
※現在製作中です。

帝国琵琶(楽器)
明治42年11月、錦翁は錦水会専用の楽器として帝国琵琶を発表する。それは京都三十三間堂の国宝、二十八部像の摩睺羅(まごら)という像の抱いている琵琶の形を模して作ったもので、構造調弦その他は従来の薩摩琵琶と同一である。帝国琵琶製作は東京の三田村楽器が行い一般に販売もされた。
写真は琵琶新聞12号(明治43年1月)に掲載された広告。

晩年-病没
錦翁本人は元来壮健でさしたる病気もなく過ごしてきたが、明治42年頃より肝臓を患い臥せることが多くなった。一度は全快したものの明治43年1月に再び再発、投薬による治療に専念するも櫂なく明治43年2月6日終に帰らぬ人となる。葬儀は2月8日南品川の願行寺、同年1月12日琵琶新聞社1周年記念演奏会で演奏した「小敦盛」が最後の演奏だった。享年65歳

吉水錦翁葬儀出棺の葬列

香爐(小田原錦堂)、位牌(直一)、喪主(直彦)
奥脇(小田錦虎、肥後錦獅、内田錦泉、山本錦園、永田錦心、牧野錦光)他二名

吉水経和(錦翁)年表
弘化2(1845)鹿児島にて誕生
安政6年頃(1859?) 郷田正之丞より琵琶を習い始める
明治3(1870) 東京遊学
明治10(1877) 鹿児島帰郷
明治11(1978) 再び上京
明治15(1882) 島津藩邸にて西幸吉と共に御前演奏
明治25(1892) 薩摩琵琶研究会発足
明治35(1902) 品川不断院にて錦水会発足自らを錦翁と号する。
明治36(1903) 門人への錦号授与開始
明治38年(1905) 精神教育帝国琵琶錬磨集刊行
明治42(1909) 帝国琵琶(楽器)発表
明治43(1910) 2月6日病没 享年65

参考資料
琵琶新聞 明治43年1-3月号 琵琶新聞社刊
琵琶読本 昭和8年 吉村岳城著
薩摩琵琶 昭和58年 越山正三著
明治以前薩摩琵琶史 平成9年 島津正著

 

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