錦琵琶と五弦五柱

起こり
 錦琵琶の初めは錦心流宗家永田錦心が、大正15年5月の山口春水(後の錦堂)門下の演奏会(※1)で楽屋にて一水会幹部に「これからは柱を五つ四の糸を二音階半上げて(本調子)やってみたい、薩摩琵琶(四弦四柱)を弾いていると薩摩琵琶の連中から、”なんだ歌だけ変えて錦心流とはなんだ“と言われるから(※2)」と発言したことから始まっている。柱を増やし四弦五柱本調子という筑前琵琶とほぼ同じ(※3)、三味線と同じ調弦、当初端唄のできる琵琶を目指したとのことで、この新楽器で最初に作られた歌は端唄“春霞はるがすみ”だった。これは先代宗家である吉水錦翁が、薩摩発祥である琵琶から独立し、帝都東京の楽器として”帝国琵琶(※4)”を提唱した考えの先を行くアイディアであった。
※1)大正15年5月23日春水会昇傳披露大会 於:白金台大正館(水聲大正17号15年5月p45)
※2)水藤錦穣テープ全集第1巻曲垣平九郎巻末解説より。
※3)筑前琵琶四弦の調弦は”1-2-3-3″であり、正しくは若干違う。柱の5本は同一位置。
※4)薩摩を離れ東京発祥の琵琶を創始したかった吉水の発案、試作製作は三田村楽器店。販売もした。

構造変更
 たった一つ柱が増え、調弦を変えただけで演奏の自由度は増したが、同時に従来の薩摩と運指構造が決定的に変わってしまった。新楽器は若い、比較的新参の門人には受け入れやすかったが、古参のいわゆるベテランには初期段階から新しく習得せねばならず、門人が皆諸手を挙げて歓迎というわけにはいかなかった。
流儀序列の根底を覆す恐れがある本発案に挙手したのは、当時一水会の総務長だった水藤枝水である。水藤は養女の冨美(後の錦穣、当時は玉水) にそれをやらせたらどうかという提案を翌日早速錦心に持ちかけた。当時多忙を極めた錦心にとってこの提案はすんなり受け入れられる。玉水が若く新進気鋭だったことも追い風になっていた。

吉村岳城作錦琵琶複製

早速吉村岳城、小池傳衞、福井徳次郎、勝田琵琶店等名だたる琵琶製作者より試作品が届けられ試奏が行われた(※5)。現在写真資料ともに伝わっているのは吉村岳城作のみである。岳城は自書”琵琶読本“でもこの錦琵琶についての可能性を述べている(※6)。
※5)最初の錦琵琶は三面あったと筆者は伝え聞いているが、上記の経緯だと四面以上はあったはずである。
※6)琵琶読本(昭和8年)、錦琵琶の項、他帝国琵琶についても触れている。画像の錦琵琶は故田村岳功師所蔵

錦穣団
 大正15年5月、永田錦心は高弟9名(錦号者名簿を参照)に自分と同等の錦号を与える(※7)。最年少の玉水は若干15歳で水藤錦穣となった。
水藤錦穣率いる一派は錦穣団と名乗り若手女性奏者のみの精鋭からなる女流演奏団となった。楽器のみならずトレードマークである玉衣(筑前琵琶の法衣のようなもの)と専用の扇型見台が制定され、若い門人が多く加入を望みグループは錦心流内の一大組織となった。

永田錦心による命名(大正15年9月)

間もなく楽器は宗家錦心が”錦琵琶”と命名し(※8a)、錦穣門人の号は櫻を付けよと発せられる(※8b)。ここに錦心流錦琵琶宗系水藤錦穣が誕生する。
新楽器を錦琵琶と命名したことには、流内に反対意見があり間もなく本部より幹部3名が陳情に訪れ、「玉水くんの創めた琵琶だから錦でなく玉琵琶としたほうが良い」と主張した(※9)。応対した枝水はありがとう、ありがとうとその場で感謝の意を伝えたが、陳情団の帰宅後枝水はそれにはまったく触れず、錦穰は”玉”は高貴な文字故にその方がむしろお上に不敬にあたるのではと思った。
※7)琵琶新聞椎橋松亭はこの錦号授与について”元より永田錦心の意思ではなかった”と回想している。(琵琶新聞345号昭和15年5月p29)
※8a)玉水考案二係ル楽器ヲ錦琵琶ト命名ス 大正十五年九月吉日
※8b)それがそのまま錦琵琶独立後も錦穰一門の号として継がれてゆく。
※9)水藤錦穣自叙伝”藤の実”より、実際誰だったかは不明。

長所と短所、そして五絃化へ
 柱を軽く押さえただけで正確な音程が出るので早いパッセージが弾ける反面、ただでさえ調子の高い女流が糸を締め上げるので、演奏中糸が切れるのに錦穣は閉口した。当時予備の琵琶を傍に置くのが常であったが、佳境に演奏中断ではどうしても興が削がれる。そこで錦穣は四の糸を二本に増やす案を思いついた。弦をダブルにする事で切れにくく、また一本切れても演奏続行できるようになった。錦心没後から間もなくのことである。この五弦の琵琶を最初に作ったのが石田琵琶店である。五絃の錦琵琶はすぐに門人すべてが弾いたわけではなく、創流当初は錦穣のみ、戦前でも都櫻錦(錦穂)や鶴田櫻玉(錦史)など女流大幹部に限られていた。また若水櫻松など男性はキャリアに拘わらず最後まで四弦であった(※10)
この石田琵琶が錦琵琶に関わる頃から、楽器のサイズは大きく、重くなって行く。
錦琵琶の五柱で早いパッセージが可能になったため錦穰の弾法技法は、人間離れした速度のフレーズを可能にし、薩摩琵琶の表現技法の拡大に寄与した、また鶴田錦史の日本国内に留まらない活躍の道具として錦琵琶は大いに資することとなる。
※10)男性門人で五絃を弾いたのは2代目宗家水藤五朗から、それも錦穣の没後のこと。

おわり

筆者追伸)昭和17年1月の琵琶新聞365号で椎橋松亭は上記と若干異なった回想を述べている。もはや検証の術も無いが錦琵琶の起こりが永田錦心と水藤錦穣二人の合作であることに変わりはなく、備忘録的にここにまとめています。

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